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アルゴン探検隊の極西紀行2 新しいページでは、最初だけ写真が表示されないかもしれません。理由は分りません。ブラウザを一度終了し、新しくアクセスし直して下さい。 エステリャ(Estella)⇒アジェギ(Ayegui)⇒ロス・アクロス(Los Acros)。約21㎞。 久しぶりに面白そうな街だったので別のホテルでもう一泊するかもしれないとペルツ氏に告げ、また会いましょうとアルベルゲで別れた。アルベルゲの宿泊代は次第に安くなり、この街では5ユーロ(800円ほど)だった。ただアルベルゲではほとんど何もできない。10時には消灯されて全員が就寝するので日記など書いているどころではない。2段ベッドの上段では身の回りの整理をすることさえひどく面倒で、洗濯をしても乾かす場所を確保するのも難しい。しかも足の痛さで歩くのがとても遅い私がアルベルゲに到着する頃には、大抵、下段のベッドはすべて先に押えられていて、そんな理由からも私はアルベルゲを敬遠するようになってしまっていた。このメイン・ルートに入ってからは、大抵のアルベルゲはインターネットが使えるコンピュータを備えているが、そのすべてがスペイン語専用で、しかも本体は密閉された箱の中に入っていることが多く、通信用のケーブルをノート・パソコンに接続できなければ私には何の意味もない。 前日、この街にもう一泊しようと決心したのは、この二つの建物(写真1)を見たときだった。 (写真1) 特に旗が3本立っている方の建物(現在は警察署として使われていた)は、なぜこんなことになっているのか、ちょっと信じられない思いがした。右側の教会に上がっていく階段のために切り取られた結果、こんな中途半端な姿になったのか、それとも最初からこんな風に設計されたのか。もし後者だとすると、これはとんでもないことだ。資料によると、教会が建てられたのが12~13世紀にかけての頃なので、イタリア・ルネッサンスのパラッツォ(王侯や貴族の館)を思わせるこの建物がそれより先にできていたとはとても思えない。としたら最初からこんな風に設計されたと考える方が妥当なのだが、はたしてこんな途方もないことをする人物が無名のままにこんな街にとどまっていたのだろうか。いずれにせよ真相は分らない。 教会(サン・ペドロ・デ・ラ・ルア、S.Pedro de la Rua)は、外観から予想した通り、非常によかった(写真2、3)。 (写真2) (写真3) ところがこの教会に併設されている修道院には本当に驚いた。(写真4、5、6) (写真4) (写真5) (写真6) 誰しも修道院というのは最も謹厳、禁欲的な場所だと思っているだろうし、もちろん私もそう思ってきた。したがってこんなジョークがまかり通る空間であったとは思いもしかった。まちがいなくこれは一人の人物による提案であろうが、実現されるためにはこれを使用する人たち、細工する人たちの同意というものが必要だったはずだ。発案から実現までのプロセスを想像すると、私の中で培われていた修道院のイメージが大きく壊れてしまう。これはスペインならではのことなのだろうか。それにしてもやることがいささか露骨に過ぎるとは思ったが、回廊の一端に設けられていたこの洞窟のような空間を見て、やはりただならぬ人物がこの建築に関わっていたと確信せざるを得なかった。(写真7) (写真7) 柱というものは、堅固な土台の上に建てられてこそ本来の力強さというものを 発揮する。ところが奥中央の短い柱は、その下に空洞が設けられている。逆に わざわざそんな不安定さを表現するために、長さまで短くされてしまった。な んという技巧と詐術。両隅の4重柱も、錯視効果を狙ったようななにやら怪し げな気配を放っている。 上の捻れた柱といい、この洞窟趣味といい、これはマニエリスムそのものではないか。こんなものが12世紀の、しかもロマネスク様式の修道院ですでに開花していたのだ。ただならぬスペイン、おそるべきスペイン。 マニエリスムとは、狭義には、15世紀末から16世紀にかけてイタリアで瞬間的に暗い華を開かせた時代概念のことである。ルネッサンスからバロックへの移行期に、両時代とは明らかに意識や精神が異なっている時代があったとして、近代になってから発見された時代のことだ。 ルネサンスのような生気溢れる健康な時代が末期を迎え、もはやそのような生気や精神の健康を信じることができなくなった人々が、虚無的な気分を表現しようとした時代であった。その特徴は、ありふれた手法(マニエラ、英語ではマナー)を、ことさらな技巧によって極端に強調しようとする諧謔精神に溢れたものであった。洞窟(グロッタ)趣味というものが好まれたのもマニエリスムの特徴のひとつであった。グロテスクという言葉はこの洞窟趣味が転じてできたものである。 1960年代から70年代にかけて、このマニエリスムの時代が再々発見され、しかもこのような精神は一時代に限定されるものではなく、どんな活発な時代の後にも必ず見られる歴史に普遍的な現象として解釈し直されるようになった。これが広義のマニエリスムである。少なくとも日本の建築界でこのような歴史的解釈を最も早く始めたのが、私の師、向井正也だった。 ロマネスクのようなひたすら真面目で質朴と思われていた時代にも、高度に知的で諧謔趣味のマニエリスムが発露していたのだ。これはとても新鮮な驚きだった。 この修道院を見て十分に満足したので、もう一泊しようと思っていた予定を急遽変更し、昼前に次の街ビリャマヨール・デ・モンハルディン(Villamayor de MonjardÍn)に向かい始めた。ところが途中で標識を見失い、そのまま西に向かえば間違いないだろうと歩き続けた結果、もっと先のロス・アクロスに着いてしまった。アルベルゲに入ったのは私が最後、7時半を過ぎていた。朝食付きで宿泊代は5.5ユーロだった。 (写真8) エステリャを出てすぐのイラーチェ(Irache)という村のボデガ(Bodega、ワイン醸造所)に設けられていたもの。横に巡礼者諸君と呼びかける看板がかかっていて、赤ワインと水が飲み放題になっていた。アルコール好きの人には信じられないようなサービスなのだろうが、コップ半分も飲むと歩けなくなるので、私はほんの少し口に含んだだけだった。 #
by santiargon
| 2007-11-08 20:47
プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)⇒シラキ(Ciraqui)⇒エステリャ(Estella)。約22㎞。
プエンテ・ラ・レイナのプエンテとは橋という意味である。街を出るその橋(写真1)を渡ってすぐ、ひとりの男に声をかけられ、結局、この日は最後までその人物と行動を共にすることになった。本多友常と共通の友人である難波和彦によく似ていて、つい彼と話しているような気分に襲われることが多かった。今年64歳のドイツ人、ヴェルナー・ペルツという人で、都市計画の仕事をしていたという(写真2)。職業上、我々は兄弟のようなものだと彼はいったが、もう年金(pension)が貰える年齢になったからと彼は引退していて、今は仲間と一緒にスペインのコスタ・デ・ソル(太陽海岸)にある街で暮らしているという。東京と京都にも少し滞在したことがあるといっていた。 (写真1) (写真2) 難波和彦に似ていると書いたが、難波氏はもっと若々しい。 今年の4月下旬から5月いっぱいをかけて彼はすでにサンティアーゴまで歩き通していて、これが今年2回目のカミーノであるという。実は私も、この一回で歩き通すのはもったいないような気がし、できることなら途中でやめ、別の年に再訪して残りを歩きたいというようなことを考えていたところだった。だがもったいないという日本語は世界中に例がないほど稀少な言葉らしく、だからノーベル平和賞を受賞したアフリカの女性は、このモッタイナイという言葉を世界中に広めようとしているという。実際、私は自分の意をペルツ氏に英語でうまく伝えられなかった。仕方なく、もう一度カミーノを歩いてみたいとしかいえなかった。その言葉を彼はまるで自分のことのように喜び、私の背中を叩きながら、2回目の方が感動はずっと深いといった。 サンティアーゴと並んでカトリック3大聖地と称されるローマ、イェルサレムにも同じような巡礼ルートがあるのかと尋ねると、ここだけだという。あとの二つは鉄道や車を使うしかないらしい。カミーノは、サンティアーゴにヤコブの墓が移されるよりずっと以前、2万年前からヨーロッパの人々がすでに歩いていた道で、彼によれば、天の川にある一つの流れがカミーノに投影されているのだという。それで私も少し腑に落ちた。キリスト12使徒の中でそれほど大きな存在感があった訳でもないのに、なぜヤコブの墓への巡礼路だけがこんなにも有名になったのか不思議に思っていたところだった。サンティアーゴ・デ・コンポステラのコンポステラとは、星が指し示した場所という意味だ。だが、ローマで逆十字に磔刑されて殉教したペテロの墓をここに持ってくる訳にはいかない。だから別の場所に埋葬されていたヤコブをここに召還したという訳だ。ペテロに次ぐ第二使徒であったというヤコブの存在と、天の川についての伝説、そしてヨーロッパ各地に住む人々の南方や日が沈む最果ての地への憧憬、そういうものが歴史の時間の中で撚り合わされながら、サンティアーゴ・デ・コンポステラ巡礼は成立してきたのだろう。ペルツ氏によれば、現在、ヨーロッパの20カ国から、サンティアーゴへの巡礼ルートができているという。 サンティアーゴまで歩き通すのは全体の15パーセント、あとの人たちは道のりの厳しさ、そして体の故障、とりわけ足の問題で落後していくとペルツ氏はいった。 なぜカミーノに来たのかと問われたので、先日、パンプローナの中華料理店で南アフリカ出身の男性に話したのと同じことを話した。すると彼も、1984年に自分の人生は大きく変ったといった。彼は、ヨーロッパはいうに及ばず、アフリカ、中東、アジアなど世界各地で都市計画の仕事をしていて、まだ若いうちからメルセデスに乗り、大きな家に住み、アフリカ美術の膨大なコレクションを持ち、湖まである敷地に別荘を持つような生活をしていたという。だがマレーシアだったかシンガポールだったかで仕事をしていた時、奥さんがストレスが昂じてアルコール中毒になり、数年後に死亡したという。すべてのものを所有していたとき、自分は少しも幸せではなかったが、それらを失って初めて自分は幸せというものを知ったと彼はいった。 日本人がせいぜい一週間しか休暇を取ることができないのを彼はクレイジーだといい、ヨーロッパの人たちが何週間も休暇を取ることこそクレイジーだとほとんどの日本人は思っているだろうと私は答え、お互いに大笑いした。 日本がアジア諸国に対しての戦争責任を全然果たしていないことについても彼は憤慨しながら話し、自分もそう思うが日本の為政者がせいぜいそういう人たちばかりだったとしか私にはいえなかった。 EU(欧州連合)が成立してから、これが私にとっては3度目の訪欧だが、当然のこととして、来るたびに各国の境界は薄れていっている。3年前にポルトガルのホテルで見たTV番組のことを彼に話した。ペルツ氏も、最初は国境をなくしたり共通の通貨を持つなどあり得ないことだとみんなが思っていたといった。 ポルトガルで私が見たのは、フランスが制作を担当し、EU諸国に同時放送されているとおぼしき番組だった。近年、NHKが制作するドキュメンタリー番組などは、コンピュータ・グラフィックスの新技術を追うことだけに執心し、肝腎の映像や中身そのものは二の次になっているとしか思えないような傾向をますます強めているが、そんな日本では絶対に不可能と思えるような質の高さだった。 それはオーストリアのウィーンにあるシェーンブルン宮殿という建築の美を讃えるドキュメンタリーで、おそらく同市にある動物園、植物園、水族館などの映像をまじえ、もう呆気にとられるほどに見事な映像美でまとめられていた。そしてそのドキュメンタリーでガイド役を務めていたのが、イギリスの名優ピーター・ユスティノフだった。『ナイル殺人事件』以降、アガサ・クリスティ原作の推理小説を映画化したものでエルキュール・ポワロ役を演じてきた俳優である。ポワロは灰色の脳を持つベルギー人探偵という設定だったはずだ。ユスティノフは、その姓からしておそらくロシア系だろう。だが私には、ギリシャの名監督ジュールス・ダッシンが撮った『トプカピ』という傑作で、気の弱い肥った男を演じていた俳優という印象の方が強い。因みに、ショーン・コネリー、イングリッド・バーグマン、ヴァネッサ・レッドグレーヴといったヨーロッパの名優から、ローレン・バコール、リチャード・ウィドマーク、アンソニー・パーキンスといったアメリカの有名俳優まで、途轍もなく豪華なオール・スター・キャストで作られていた最初の『オリエント急行殺人事件』では、ポワロ役を、デビュー作の『トム・ジョーンズの華麗な冒険』でいきなりアカデミー主演男優賞を獲ったアルバート・フィニーが演じていた。 余談はさておき。ロシア系と思われるイギリス人俳優が案内するオーストリアにある建築を讃えるフランスが制作したドキュメンタリーを私はポルトガルで見た、という訳だ。 カンボジアにあるアンコール・ワットの美を讃えるTVドキュメンタリーを、中国が制作し、ヴェトナム系日本人の俳優がその案内役を務め、共通の通貨によって何の関門もなく旅行してきたフィリピン人が韓国のホテルでそれを見る。そんな事態がいつの日かアジアにも訪れることはあるのだろうか。だがそのような事態をすでにヨーロッパは実現しているのであり、そのことを我々は、いつでも、何度でも、驚異し、噛みしめる必要があるだろう。 今日の目的地、エステリャに着いた(写真3、4、5、6)。 (写真3) (写真4) (写真5) (写真6) #
by santiargon
| 2007-11-08 20:39
プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)⇒エウナテ(Eunate)⇒オバノス(Obanos)⇒プエンテ・ラ・レイナ。約5㎞。
たまっていた日記を書くのと、足を休ませるため、この街にもう一日滞在することにした。パンプローナで4,5日休養しようと思っていたのだが、あまり面白みのない街だったので、2日だけでこの街にやって来た。だがこの街も面白くない。ただ、アルベルゲのそばにある教会(イグレシア・デル・クルーシフィホ、Iglesia del Crucifijo)は非常に興味深かった(写真1、2、3)。 イグレシア・デル・クルーシフィホ また専門的な話になるが、あり得ないようなプランの教会だった。普通、少し大きな教会になると、礼拝堂は3廊式のプランになる。中央に身廊、柱列を挟んで両側に側廊が配置されるのが一般的なあり方だ。というより、広々とした大きな礼拝堂が欲しくても、間口を架け渡す構造が大変なことになるので、小、大、小の幅の空間を3つ並列させるという形式を編み出したという方が正確だろう。そして特にゴシック時代になると、それら3廊を縦軸として、祭壇側寄りに横軸を描くように両側に張り出しが設けられるようになる。これをラテン十字のプランという。縦軸と横軸が同じ幅、同じ長さを持つものをギリシャ十字のプランという。当然、ラテン十字は軸性を持ち、ギリシャ十字は中央集中型のプランになる。ギリシャ十字で代表的なのがヴァチカンにあるカトリックの総本山、サン・ピエトロ寺院だ。 ところがこのイグレシア・デル・クルーシフィホは同じような幅の2廊式になっている。19日の日記のサン・サルバドール・デ・レイレの地下聖堂のところでも書いたが、これでは礼拝堂の中心軸に柱列が並ぶことになり、普通は絶対に許されないようなプランになってしまう。 だがよく見ると、それぞれが独立した1廊式の礼拝堂を2列並べたようになっている。祭壇側に向かって右側が主廊、左側が従廊とでもいえばいいか。主廊の方が幅も長さも若干大きめになっている。ガイドブックによると、12世紀に建てられた本体に、百年後、ドイツの巡礼者によって持ち込まれたY字型をしたキリスト磔刑像(驚くべきものであったらしい)を展示するためにこの従廊部分が増築されたらしい。次の日に終日行動を共にしたドイツ人の都市計画家も、こういうことについては一般の素人と変らない知識しか持っていなかったが、この教会にはかなり驚かされたという。 (写真1) 主廊側から祭壇を撮す。ダウン症の人たちが集団で見学に来ていた。 (写真2) 主廊側から後部を撮す。主廊の方が少し長い。 (写真3) 従廊からY字型磔刑像を撮す。 エルミータ・デ・サンタ・マリア・デ・エウナテ プエンテ・ラ・レイナから30分ほど歩いた人里離れたところに建つエルミータ(小会堂、ermita)。 サングエサのアルベルゲで松井夫妻とも話したことだが、カトリックに帰依するする民族、国家、人々が人類の歴史に残してきた行跡には、自他を問わず、毀誉褒貶入り乱れるところ甚大なるものがあるだろう。世界は彼らだけのものではない。だが少なくとも建築という営みに携わる者にとっては、その業績の多くは、絶対に否定することのできない、いかんともし難い圧倒的な価値を持つものであるといわざるを得ない。建築だけでなく、絵画、彫刻、音楽その他あらゆる芸術においても同じことがいえるだろう。もちろんそのカトリックに属する社会にも、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教等、他の宗教が残してきた業績について同様の感慨を持つ者は少なくないだろう。だからこそ、松井夫妻もそうであるように、我々は、建築を通して宗教や人間や世界を知るために、世界中の建築を訪ね、何事かを学ぼうとする。 そしてエウナテという原野のような地にぽつねんと存在するこの謎めいた会堂にも、私たちはいろんなことを教えられ、解くべきいろんな謎を迫られる。(写真4) (写真4) これが、一人の隠者が神と対峙するべく自ら籠もる蟄居のようなものとして建てられたのなら、まだしも理解の糸口は開かれている。日本にもそうした類のものはないことはないだろうからだ。だが、少規模とはいえ少なくともある共同体によって礼拝というものが営まれるべく造営された会堂である。しかもカテドラルと称されるようなものに較べるといかにも小規模なものではあるが、建設には必ずある一定以上の集団の力が必要なものである。つまりある種の共同体による作業であった。にもかかわらず、その共同体が日常を送ったであろう場所からなぜこんなにも離れたところに建てられなければならなかったのか。これがまず最初の疑問であった。もっと徹底的に深山のようなところに、修道院のようなものとして建てられたのならともかく、あるいは大きな礼拝堂が身近にあるにもかかわらず、どうしてこういうものが建てられる必要があったのか、それがよく解らない。 八角形をなす小会堂の、そのまわりを取り巻くように設置された同じ八角形の低い柱列。この建築からそれを取り去った状態を想像するのはたやすい。そしてほとんどの人は、それを、いかにも何か決定的なものが欠けた陳腐なものとしか思わないだろう。だからといって彼(彼女)は、もし自分がこのような立地にこのような条件の建築を設計するという機会を与えられたとしても、これに似たものを構想できただろうか。まわりに何のよすがもないこのような立地には、円形や正多角形、要するに軸性のない集中型プランの建築を構想するのが常套手段というものだ。だがそのまわりを、何の機能的な必要性がある訳でもないこのような柱列で取り囲むというのは、凡庸な想像力では決して出てこないだろうものだ。(写真、5、6、7、8、9) まわりを取り巻く柱列によって、この建築は、一挙に単旋律にハーモニーが加わったような豊かさを獲得することになった。白井晟一がこれとよく似た手法を用いていたことがある。 (写真5) (写真6) (写真7) (写真8) (写真9) 以下に書くことを、ここに掲載した写真だけで気づいた人は凄い。 実はこの建築は正八角形ではない。正面の祭壇のある部分の辺が他の7辺より明らかに大きい。ということは、360度からまずこの辺の角度を取り、残りの角度を7等分したということだ。ところが幾何学では角度を3等分することさえ不可能なことが証明されているのに、7等分する道を選んだということは、最初から明らかな無理を選んだということだ。もちろんすべての建築は、数値や幾何学がそのまま立体化されている訳ではない。大なり小なり誤差というものを含んで成立している。だからこの教会も、残りの辺は、それぞれ7等分された角度の近似値を持つべく構想されたといってよい。だが理念によって不可能な、近似値でしかあり得ないことが、神のための空間にふさわしいといえるだろうか。20世紀最大の哲学者といわれたオーストリアのヴィトゲンシュタインは、姉から依頼されて自ら設計した住宅(ストンボロウ邸)にさえ、近似値を許さず、図面に記載した寸法に厳格に合致することを求めた。 ところがそんな小理屈などどこ吹く風といった調子で、この建築は、残りの7辺の長さも、測ってみるとまちまちだった(私の歩側は正確だ)。極端なのはまわりの柱列だ。礼拝堂本体の8角形と頂点の位置が合っていないどころではない。それぞれの辺が本体の辺に平行なのはその通りだとしても、7等分したはずの辺は、長いものと短いものとでは3割以上の差があった。ということは、辺によって本体と柱列の間の幅がそれぞれ大きく異なっているということだ。しかもなぜ8辺の柱列のうちの6辺が角柱で、残りの2辺だけが2重円柱なのかも解らない。2重円柱から成る2辺が祭壇や入り口の位置と関係があるのならともかく、そういう訳でもない。なぜその位置にだけ突然2重円柱なのかまったく解らない。もっと解せないのは各辺の柱の数だ。5の辺もあれば6の辺、7の辺もあり、その配列もまちまちである。ただオリエンテーションは厳格に守られていた。オリエンテーションというのは、ヨーロッパで教会が建てられるとき、祭壇がエルサレム、つまり東方に向けられるという由緒から来た言葉である。それが転じて、新しい世界に入ってきた者に与えられる初期指導というような意味にもこの言葉が用いられるようになった。 上に挙げたイグレシア・デル・クルーシフィホの2廊式プランやサン・サルバドール・デ・レイレの地下聖堂の、通常では許されないような礼拝堂のプランを強引に実現してしまったのと同じように、これも、この国だからできてしまったということなのだろうか。それとも、この会堂を構想した者が持っていた天衣無縫ともいうべき美意識のなせる技なのだろうか。何となく私は、常識ではあり得ないような不協和音を一杯含んでなお、この上なく美しいブルガリアの民俗音楽、あるいは、ストラディヴァリウスの作るヴァイオリンにはルーズな部分が多く含まれているらしいという話を思い出した。(写真10) (写真10) #
by santiargon
| 2007-11-08 20:32
パンプローナ(Pamplona)⇒ウテルガ(Uterga)⇒アルト・デル・ペルドン(Alto del Perdón)⇒オバーノス(Obanos)⇒プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)。約23㎞。
パンプローナのような大都市でも、巡礼者用に黄色い矢印がペンキで書かれていて、それを探しながら進む。建物の壁や木の幹、地面、交通標識の柱等、いろんなところに書かれているので、見つけるのが大変だ。見失いそうになると立ち止まってまわりに目を凝らす。ゲームをしているようなものだ。 田舎の道に入ってしばらくするとこんなものがあった(写真1)。 (写真1) 巡礼中に亡くなった人の碑。遭難するような場所とも思えないので、急病か 何かだったのだろう。 昼前ぐらいから、上り坂の勾配が次第にきつくなってきた。稜線上を風力発電機が延々と繋がるように並んでいる(写真2)。後ろから吹き付けてくれるのなら相当に楽になりそうな猛烈な風が吹いている。台風以外では経験したことがないような強風だ。しんどく、寒く、足が痛い。 (写真2) みんなかなりの勢いで回っている。大西洋からの風が年中吹き付けるような 特異な場所なのだろう。 ピレネーのソンポール峠を越えたときは、道のりは果てしなく続くかのように長かったけれども、舗装路なので勾配はそれほどでもなかった。自然も変化に富み、水場も多く、むしろのどかといっていいようなコースだった。だがソンポール峠を越えてきたというだけで、みんなから例外なく驚きと賞賛の声が返ってくる。スイスに住むフランス人女性のカップルと、オロロンで出会った数人のグループは私より大分先に行ったので、まだ私はソンポールを歩いて越えてきた人に一人も出会っていない。だが多くの人が必ず越えなければならないこの峠もかなりきつい。 と思う間もなく、峠(アルト・デル・ペルドン)に到着(写真3)。 (写真3) こういうモニュメントがどれもユーモアに富んでとても洒落ている。分厚い 鉄板の服まで風になびいている。 峠からの下りはこぶし大やそれ以上の大きさの石ががらがらとしていて(写真4)、歩きにくいことこの上ない。ことさらに痛い足に響く。 (写真4) 前の男の服装から暑そうに見えるが、よくあんな格好でと呆れるほど ひどく寒かった。 このあと少しして、私は坂道で転倒してしまった。下り勾配というのは写真では伝わりにくいものだが、これでも相当にきつい。ごろごろする大きな石に思わず片足を踏み外し、痛んだ足の踏ん張りがきかず、もう一方の足で持ちこたえようとしたがそれも踏み外し、つんのめり、さらに下りで勢いがつき、15キロほどの荷物を背負っまま、何十年ぶりかの見事な倒れ方だった。あまりの痛さにしばらくは立ち上がることもできなかった。打ち付けた唇から血、右膝の破れたズボンに血。出血こそしていなかったが、両の手のひらも皮膚の下が青くなっている。幸いカメラと眼鏡は無事だった。痛さと悔しさと情けなさでしばらくは写真を撮る気にもならなかった。おまけに、気が動転してしまっていたのか、矢印を見失い、行き止まりの道に入っていた。結局往復で1キロほど無駄歩きになってしまった。 4時頃、オバーノスという村に着いた。通過するそれぞれの村や街は、いい加減に歩いていればどれも同じように見えてしまうが、注意深く観察するとやはり微妙に個性というものがある。この村には何となく品格というようなものが漂っているように感じた。とりわけ感心したのは教会前の広場だった。囲繞感と開放感のバランスが絶妙で、こんなに気持ちのいい広場はほかに記憶がない。広場というのはどんな建築家も大好きなテーマで、そんなものを設計する機会でもあれば、ともすれば囲繞感が勝ちすぎて窒息しそうな広場なってしまうことが多い。広場恐怖症(アゴラフォビア)という神経の病もあるほど、世の中にはそういうことに敏感な人もいる。症状のひどい人は、まわりの建物の中にいる人やそこにいない人の視線まで突き刺さるように感じ、自分の家から一歩も外に出ることができなくなるという。玄関からほんの数歩の郵便受けまで必死の覚悟で出ようとする人の姿をTVで見たことがある。 世界一豪華な応接間といわれるヴェネチアのサン・マルコ広場、あるいは同じイタリアのシエナにある世界で最も美しいといわれるカンポ広場。囲繞感ということからいえばどちらも相当に強い。両方ともまわりを取り囲む建物の焦点が一箇所に集まるような構成になっている。カンポ広場は扇を大きく開いて縦に伸ばしたような形になっていて、特にその傾向が強い。だがどちらも広さが十分にあり、ということはまわりの建物は相対的に低く感じるので、窒息しそうな印象から免れている。あの構成で広場がもっと狭ければ、アゴラフォビアの傾向のある人はいたたまれないだろう。 このオバーノスの広場は、おおむねの建物がそれとなく別々の方向を向いていたり中心軸がずれたりしている。だから焦点というものができにくいような構成になっている。一人の建築家がそういうことを意図して設計しようとしても、絶対にこうは絶妙にいかないだろう。どうしても過剰な作為や恣意というものが出てしまうものだ。 この広場を実測すれば、実にほれぼれとするような図面ができ上がることだろう。どこかの大学の研究室でやらないだろうか。いかがですか、本多先生。もっとも地元の大学あたりがとっくにやっているとは思うけれども。もしそうであればその図面をぜひとも見てみたいものだ。(写真5、6、7、8、9、10) (写真5) (写真6) (写真7) (写真8) (写真9) (写真10) スイスに住むフランス女性のカップル、ソンポールに向かうつづら折れの坂道で大きな声をかけてくれた自転車に乗った白髭の男性、彼らがそこまで行くといっていたプエンテ・ラ・レイナに着いた。アルル・ルートがここで合流し、フランスから出る四つのルートを辿ってきた人たちが一堂に会する街。いわば巡礼路の要衝であり、どんなに素晴らしい街だろうかと期待していた。だが街の入り口にある教会と2キロほど離れたところにある小さなチャペルを除いて、街自体にはひどくがっかりさせられた。今までに通過してきたどんな村や街よりも陳腐で荒んだ印象しか受けなかった。 すべてのルートを辿ってきた巡礼者が合流するアルベルゲだから、少しは興味があった。玄関脇のベンチで、足の手入れをしているシャワー上がりと思われる女性に、どれくらいの人が宿泊しているのかと尋ねた。 今までに泊まったアルベルゲやジート(正式なアルベルゲではないが中身や料金はよく似たもの)では、最初のレスカーと松井夫妻らと一緒だったモンレアルの9人が最多だった。それ以外、私ひとりだけということの方が多かった。だから料金が格別に安いアルベルゲはとても有難かった。 シャワー上がりの女性は、30人ぐらいはいるだろうと答えた。しかもまだ日は高い。これからもっと増えるだろう。巡礼者の資格無しという声があちこちから飛んで来そうだが、その数に恐れをなし、思わず近くにあったホテルに私は逃げ込んだ。 #
by santiargon
| 2007-11-08 20:23
パンプローナ⊂ÔÔ⊃サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ(San Juan de la Peña)⊂ÔÔ⊃サン・サルバドール・デ・レイレ(San Salvador de Leyre)⊂ÔÔ⊃パンプローナ。約400㎞。⊂ÔÔ⊃はタクシー移動。
松井夫妻からあんな凄い建築を二つも見逃すなんてと教えられたので、今日はタクシーを使うことにした。どちらもすでに歩いてきたルートから少し外れたところにあった。パンプローナの街中でつかまえたタクシーの運転手は、かなり調子のよさそうな男だった。まずサン・フアン・デ・ラ・ペーニャに行き、パンプローナに戻る途中でサン・サルバドール・デ・レイレに寄って欲しいと頼んだ。彼はどちらも知らなかったらしく、地図を見て、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャまで2時間はかかるだろろうといった。いったいいくらぐらい払うことになるのだろう。 途中、3日前に歩いたジェサ湖の反対側を通過した。湖全体から雲のようなものが立ちのぼり、見たこともない風景(写真1)だった。思わず停車するよう運転手に頼んだ。彼は上機嫌で、必要な時にはいつでも言ってくれと車を停めた。 (写真1) サン・フアン・デ・ラ・ペーニャに着いたとき、メーターは200ユーロ(3万2千円ほど)を優に越えていた。往復8万円ぐらいになりそうだった。日本を発つ前、こんな旅に出ると報告に行った姉や兄たちから貰った餞別をちょうど使い果たすような金額だ。 サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ ちょうど一時間後にここに来て欲しいと頼んでタクシーを降りた。(写真2)。 (写真2) まず浮かんだのは、鳥取県の、同じような奥深い山中の崖のくぼみに建てられた三徳山三仏寺投入れ堂という建物(http://www5d.biglobe.ne.jp/~mitoku/nageire.html)だった。写真家の土門拳が、日本の歴史的建造物の中の最高傑作と讃えた建築だ。おそらく、人類全体にとっても普遍のものに違いない同じような宗教的信念を持ち、同じような立地を発見し、同じような建築的執念によって建てられた建物同士。だがそれらの同一性を越えて、むしろ圧倒的な差異こそが思い知らされるような建築だった。 あくまでも細身の、可能ならば抽象的とさえあろうとするような投入れ堂とは異なり、このサン・フアン・デ・ラ・ペーニャという修道院の建築は、人間の持つ肉体性というものの、その果てにある姿を実現しようとしているように思えた。いかに健全な肉体を保ちながら、自然や神に対し得るか、それがヨーロッパ文化の底流にあるように思う。逆に日本の文化は、いかに人間の持つ肉体性というものを排除しようとしてきたかというところにその本質があるような気がする。古代より、人間の裸体の彫刻や絵画が西洋には溢れるようにあり続けてきたのに、日本では皆無といってよい。 この建築のどこに肉体性というものを感じるのかといわれると、あくまでも投入れ堂との相対的な印象の比較の上での話だが、もうすべてにおいてそれは充溢しているというしかない。たとえば投入れ堂の細い柱一本を切り取れば、それはもう単なる一本の木材に過ぎず、柱という形式を与えられていた時点でのものとはすでに本質を異にしてしまっているように思う。つまり投入れ堂を構成する単なる木材に過ぎなかったもの一本一本に、形式や意味が付与されているということだ。逆にこのサン・フアン・デ・ラ・ペーニャを構成するすべての石材は、どこまでも同じ石材のままで、それが集積され、一個の全体性というものを獲得した時点で、初めて巨大な意味や形式が現れることになる。 こんな大きな困難なテーマを短時間でまとめるのはとても無理なので、いまはこのぐらいのことしか書けない。いずれにせよ、投入れ堂との比較において、この建築は西洋と東洋の文化の違いの本質をまざまざと見せてくれているように思う。(写真3、4、5、6) (写真3) (写真4) (写真5) (写真6) 次のサン・サルバドール・デ・レイレに向かうとき、運転手は、これはもう倒しておくからといって料金メーターを止め、パンプローナは無税だともいっていた。 サン・サルバドール・デ・レイレ 同じく一時間後に迎えに来て欲しいと告げて中に入った。(写真7) (写真7) 入場料(3ユーロ)と引き替えに鍵と日本語の解説書を渡された。日本語は意外としっかりしたものだった。礼拝堂の鍵を自分で開けて、中に入ったら必ず施錠するようにいわれた。修道院としての活動がそのまま営まれているため、無闇な人の出入りを防ぐためなのだろう。 ロマネスクの空間は、ゴシックのような立ちのぼっていくという気配がなく、しんとして、重い。宗教空間としてはこちらの方がふさわしいと思われるのだが、この荘重、静謐を犠牲にして、ゴシックは垂直性と華麗を求めた。以降、ヨーロッパの教会建築でこの特性を積極的に再獲得しようとする動きがあったとは思えない。(写真8,9) 突然、祭壇横のドアが開き、黒い僧服を着た男性が一人ずつ現れ、席に着いていった。そしておもむろに合唱が始まった。グレゴリオ聖歌。修道士としての日常活動の一環なのか、見学者へのこころざしなのか、どちらか分からない。当然、レコードやCDで聴いてきたものには人数も歌唱力も劣るけれども、それでもとても美しい。(写真10) この修道院の特別の空間である地下聖堂に下りた。傾斜した地盤の上に建てられているため、一階の床高を調整する柱頭付きの束(つか)のような短い柱が林立し、それらをアーチで繋いでいる。見たことのないような強烈な空間だ。だが傾斜地に建てられたという与条件によって不可避的に生み出されたものであり、人間の意志によって予定調和的に構想されたものではない。つまり、人間の想像力を越えた空間がそこに発見されたということだ。逆にその空間の力に驚き、人間的な手業を加えていったのだろう。 だがここに世にも困難な問題が控えていた。祭壇の中心軸上に柱が並ぶという、すべての宗教を含めておそらく世界でただ一つの礼拝堂が出来上がった。建築には人類が何万年、何十万年という時間をかけて培ってきた制度やタブーというものがあり、その最も冒すべからざるタブーを、意図せざるものであったとはいえ、この地下聖堂は冒してしまっている。そこまでしても聖堂として使いたい、それほど強い力がこの空間に溢れていたのだろう。いずれにしてもこの世に二つとない空間だ。(写真11、12) (写真8) (写真9) (写真10) グレゴリオ聖歌を歌う修道士たち。 (写真11) (写真12) 柱列が祭壇を左右に二分している。 パンプローナに戻る途中、メーターがいつの間か150という数字に変ったまま止まっていた。降りるとき、いくら払えばいいのかというと150ユーロでいいという。解せないままにクレジット・カードを渡すと、端末を少し触ったあと、このカードは使えない、だから現金で支払って欲しいという。そういうことだったのかとこちらも納得し、喜んで150ユーロを渡した。予定の三分の一以下の金額で済んだ。どちらも上機嫌で別れた。 昨日満室で断られたオスタルを訪ねると、今日は空いていた。40ユーロ。 夜、昨日の昼食を食べた中華料理店にまた行った。客はまだ一人もいなかった。食事を終わり、お茶を飲みながらガイドマップでこれからのコースのことを調べていると、客が一人入ってきた。向かいのテーブルの、私と向かい合う席に座った。50代の男性。中国語はもちろんのこと、スペイン語も出来ないらしく、英語で何度も確認しながら注文していた。 いきなりカミーノかと私に声をかけてきた。それから一時間以上、離れたテーブル同士で話し続けることになった。他に客はいず、店の人間は英語が分からないので、お互いに大きな声を出してもそばでひそひそと話すのと変りはなかった。南アフリカ共和国の人間だが今はロンドンに住んでいるという。テレビカメラマンで、打たれた瞬間のゴルフボールを捉えてその飛跡を追うのが自分の仕事だといった。今回は短期の休暇でやって来たが、サンティアーゴまではすでに歩いたという。ガリシア地方は山岳地帯で一年中雨が降っている、10月には雪になるからその対策を忘れるな、絶対に野宿はしてはいけない、助けてくれる人が必ずいるから人家を訪ねろ、よかったところは後でその本にマークしてやるなどと話してくれた。 イギリス人の友人がこの巡礼のことを教えてくれたこと、その彼が自殺して今年がちょうど20年目だということ、2年前、長女が交通事故に遭った日に歩き始めたことなどを話した。長女のところで言葉に詰まってしまったが、静かに話を聞いてくれた。あなたは絶対にこの旅で何かを見つけることができる、今自分はとてもエモーショナルな気分になっている、あなたにとても感謝しているといった。別れ際、両手で私の手を長く握り、いい旅を祈っているといってくれた。 #
by santiargon
| 2007-10-28 01:03
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