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ジェサ(Yesa)⇒リエデナ(Liedena)⇒イドシン(Idocin)⇒モンレアル(Monreal)。約30㎞。
明日、パンプローナへの行程を長く残したくないために、おそらく初めて30キロほど歩いた。巡礼者のための山を通る道も用意されているようだが、ジェサはそのメインのルートから外れているために、そんな道に入る案内もないようで、そのまま自動車の走る道路を歩いた。とはいえ巡礼者も歩くことができるように路側帯が完備され、そのための標識も立てられていた。いくつか小さな村を通過したが、とりたてて特色のあるようなところはなかった。この日、最も印象的だったのはこれ(写真1、2)。 (写真1) (写真2) 深い峡谷の入り口に架けられた古代ローマの橋。自分の生きてきた人生と はかけ離れた、何か途方もないものを見ているというような気がした。 悪魔の橋(Puente del Diablo)と呼ばれているらしい。 アルベルゲには6時頃着いた。ドアを開けるとそこはダイニングのようになっていて、ひと組の男女が休憩していた。後にホセとクリスティーナのスペイン人カップルだと知った。ホセは熊のような体つきに剽軽な顔、ドナルド・ダックのような声で、アメリカに行けばたちまち人気者のコメディアンにでもなれそうな男だった。クリスティーナはソフトで知的な文句なしの美人。知っている人はほとんどいないと思うが、アンジー・ディキンスンという女優に似ている。あるいはテイタム・オニールをもっと優しくしたような顔。挨拶をすると、先客のなかに風邪を引いて寝ている人がいて、静かにして欲しいと言われているとクリスティーナが教えてくれた。 忍び足で階段を上がると、すでにベッドに寝ている男がいて、やおら目を開けて睨むようにこちらを見た。その隣に毛布を頭からかぶって寝ている人物がいて、病人はそちらの方だった。空いたベッドを探していると、日本語で自分の名を呼ぶ声がする。振り返ると、一昨日サングエサで一緒だった松井氏だった。小さな声で再会を喜び合い、夕食はどうするのかと尋ねた。ダイニングの声がこの寝室にまでよく届くので今日は料理できそうにない、だから近くにある店に明日の食料を買いに行き、その後はレストランで食事をする予定になっているという。 シャワーを浴びた後、松井夫妻と共に店に行き、明日のパンとハムと水、それにズッキーニと見間違うような太さのキュウリを1本買った。レストランが開くのは9時らしいので、それまで時間を潰すため、裏のテラスで松井夫妻と買ってきたワインを飲み、キュウリの皮をむいて塩を振りかけた。体中に生気が戻るように感じるほど美味しかった。 ホセとクリスティーナは先にレストランに行くといって出かけたので、私たち3人も出かけるべく用意をした。荷物を置きにベッドに戻ると、着いたばかりのような男がいた。病人がいるのでここでは静かにしないといけないらしいと英語で伝えた。すぐ後で、ルドルフという名のドイツ人で、彼もまた建築家であることを知った。 前の席、右から松井夫人、ホセ、クリスティーナ。こちら側の席、右から松井氏、私、ルドルフ。私以外、昨日、サングエサのアルベルゲでも一緒だった人たちだ。ホセは苦手な英語を習いたがっていたらしいのだが、習うのは日本語が先だと昨日の夜考え直したという。松井夫妻ととても気が合うようだった。 「イン スペイン、」とクリスティーナが松井夫人に何か説明しようとしていた。少し間があいたので、すかさず私がそこに割り込んだ。「イット レインズ メインリー オン ザ プレイン」。 びっくりし、吹き出しそうになるのをこらえながらクリスティーナが私を見た。ほかの4人は分からないようだった。クリスティーナが説明した。『マイ・フェア・レディ』で、イライザがヒギンズ教授から英語の発音を矯正されるシーンで歌われる歌。『In Spain it rains mainly on the plane(スペインでは雨は主に荒れ野に降る)』。私が歩いてきたのは荒れ野ではなかったということなのだろう。 ルドルフは静かな男だった。ハカから、真っ昼間、動くものは何もなく、底の知れないような静けさの中ばかりを歩いてきたと話すと、それはあなたの心を映していたからだと彼はいった。ベックリンの絵や糸杉についても話すと、彼もベックリンには関心があるらしく、糸杉はイタリアのトスカナ地方に行けばいくらでも見られると教えてくれた。 松井氏によると、ルドルフはベルリンで35人ほどの所員を抱える設計事務所の所長をしていたらしい。だが大きなトラブルに見舞われ、すべて自費で処理して事務所をたたみ、その直後、ホタテ貝の化石を持った子供に偶然出会い、ここに来たのだという。私にはサングエサのアルベルゲで松井夫妻と話したことが大きな慰めになったといっていた。その前夜、同じアルベルゲで私は松井夫妻にフランク・ゲーリーを少しけなすような言い方をしてしまっていたので、ゲーリーを好きだというルドルフとの論争のようなものを彼らは私に期待していたようだった。 10年ほど前、スペインのビルバオというバスクの都市に、ヴェネチア、ニューヨークに次いで3番目のグッゲンハイム美術館が建てられた。設計を担当したのがフランク・ゲーリーというアメリカの建築家で、まさに鬼面人を驚かすようなその怪物的デザインは、山間のひなびた工業都市だったビルバオを、一夜にして一大観光都市に変貌させることになった。その後、ヨーロッパの各都市がビルバオに続けと言わんばかりに世界中から最先端を行くような建築家を招聘し、思う存分に腕をふるわせるという風潮が始まった。 だがルドルフは、自分が本当に好きなのはドナルド・ジャッドだと言った。どうしてこの旅ではこんなことばかり起こるのか。 この日記で私は何度か道家洋という自分より15以上も歳下の友人の名を出してきた。その後も彼に一、二度電話をし、彼と同じ県で設計事務所を営む夫妻に会ったことなどを話した。だがあえてルドルフのことには触れないでいた。私も驚いたが、この箇所を読む彼の方がもっと驚くことだろう。 なぜ前日はゲーリーのはずだったのに、私が加わるとジャッドに変わってしまうのか。しかも好きな建築家はと尋ねられてドナルド・ジャッドと答える建築家など世界中を探してもそうはいないだろう。ジャッドは建築家でさえないのだ。 早逝した二人の友人のことを追想しながら歩こうと私は思っていた。意図しなくても自然に二人のことを考えることが多かった。その一人が大島哲蔵だった。彼は、その死の瞬間、私の知る限り、ドナルド・ジャッドについての日本の第一人者だった。ジャッド(Judd, Donald)は、その名からも推察されるように、ユダヤ人で、自宅やアトリエなどの建物を、自らの芸術行為の一環として建てたことでも知られている。ミニマル・アートという60~70年代にニューヨークを中心にして隆盛を誇った傾向の、最も名の通った芸術家の一人だ。大島哲蔵は、道家洋の協力によってジャッドの著書を出版してもいた。もちろん道家を私に紹介したのも大島だった。 あれは緩慢な自殺だったと、大島の死の間際、彼の周辺にいた人たちは言った。急に肺を患い、一度は入院加療しようとしたものの、すぐに自ら退院し、あとはなすがままにまかせたという。彼が一人住まいの自宅で死んで発見されたと道家からの第一報を受けたとき、信じられないとはまさにあのような感慨のことをいうのだろうという感慨に私は襲われた。 その4年前、ふとしたことで私は大島とささいな諍いを起こし、その後もボタンの掛け違えのようなことがいくつか重なり、次第にしこりは大きくなり、ついに最後まで関係を修復できないままに終わった。すぐにでもそうしたいという気持ちが私の中にもありながら、幾度となく聞こえてきた修復を求める彼の声を、あまりに愚かにも、私は聞こえないふりばかりし続けた。 ほぼ30年間、大島哲蔵は私のかけがえのない友人であり続け、私も彼にとってのかけがえのない友人であり続けたと思う。建築とは無関係な分野の人間であった大島をこの世界に引き入れたことの任を負うのも、主に渡辺豊和と私の2人であったと私は思っている。
by santiargon
| 2007-10-28 00:39
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