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アルゴン探検隊の極西紀行2 新しいページでは、最初だけ写真が表示されないかもしれません。理由は分りません。ブラウザを一度終了し、新しくアクセスし直して下さい。 エステリャ(Estella)⇒アジェギ(Ayegui)⇒ロス・アクロス(Los Acros)。約21㎞。 久しぶりに面白そうな街だったので別のホテルでもう一泊するかもしれないとペルツ氏に告げ、また会いましょうとアルベルゲで別れた。アルベルゲの宿泊代は次第に安くなり、この街では5ユーロ(800円ほど)だった。ただアルベルゲではほとんど何もできない。10時には消灯されて全員が就寝するので日記など書いているどころではない。2段ベッドの上段では身の回りの整理をすることさえひどく面倒で、洗濯をしても乾かす場所を確保するのも難しい。しかも足の痛さで歩くのがとても遅い私がアルベルゲに到着する頃には、大抵、下段のベッドはすべて先に押えられていて、そんな理由からも私はアルベルゲを敬遠するようになってしまっていた。このメイン・ルートに入ってからは、大抵のアルベルゲはインターネットが使えるコンピュータを備えているが、そのすべてがスペイン語専用で、しかも本体は密閉された箱の中に入っていることが多く、通信用のケーブルをノート・パソコンに接続できなければ私には何の意味もない。 前日、この街にもう一泊しようと決心したのは、この二つの建物(写真1)を見たときだった。 (写真1) 特に旗が3本立っている方の建物(現在は警察署として使われていた)は、なぜこんなことになっているのか、ちょっと信じられない思いがした。右側の教会に上がっていく階段のために切り取られた結果、こんな中途半端な姿になったのか、それとも最初からこんな風に設計されたのか。もし後者だとすると、これはとんでもないことだ。資料によると、教会が建てられたのが12~13世紀にかけての頃なので、イタリア・ルネッサンスのパラッツォ(王侯や貴族の館)を思わせるこの建物がそれより先にできていたとはとても思えない。としたら最初からこんな風に設計されたと考える方が妥当なのだが、はたしてこんな途方もないことをする人物が無名のままにこんな街にとどまっていたのだろうか。いずれにせよ真相は分らない。 教会(サン・ペドロ・デ・ラ・ルア、S.Pedro de la Rua)は、外観から予想した通り、非常によかった(写真2、3)。 (写真2) (写真3) ところがこの教会に併設されている修道院には本当に驚いた。(写真4、5、6) (写真4) (写真5) (写真6) 誰しも修道院というのは最も謹厳、禁欲的な場所だと思っているだろうし、もちろん私もそう思ってきた。したがってこんなジョークがまかり通る空間であったとは思いもしかった。まちがいなくこれは一人の人物による提案であろうが、実現されるためにはこれを使用する人たち、細工する人たちの同意というものが必要だったはずだ。発案から実現までのプロセスを想像すると、私の中で培われていた修道院のイメージが大きく壊れてしまう。これはスペインならではのことなのだろうか。それにしてもやることがいささか露骨に過ぎるとは思ったが、回廊の一端に設けられていたこの洞窟のような空間を見て、やはりただならぬ人物がこの建築に関わっていたと確信せざるを得なかった。(写真7) (写真7) 柱というものは、堅固な土台の上に建てられてこそ本来の力強さというものを 発揮する。ところが奥中央の短い柱は、その下に空洞が設けられている。逆に わざわざそんな不安定さを表現するために、長さまで短くされてしまった。な んという技巧と詐術。両隅の4重柱も、錯視効果を狙ったようななにやら怪し げな気配を放っている。 上の捻れた柱といい、この洞窟趣味といい、これはマニエリスムそのものではないか。こんなものが12世紀の、しかもロマネスク様式の修道院ですでに開花していたのだ。ただならぬスペイン、おそるべきスペイン。 マニエリスムとは、狭義には、15世紀末から16世紀にかけてイタリアで瞬間的に暗い華を開かせた時代概念のことである。ルネッサンスからバロックへの移行期に、両時代とは明らかに意識や精神が異なっている時代があったとして、近代になってから発見された時代のことだ。 ルネサンスのような生気溢れる健康な時代が末期を迎え、もはやそのような生気や精神の健康を信じることができなくなった人々が、虚無的な気分を表現しようとした時代であった。その特徴は、ありふれた手法(マニエラ、英語ではマナー)を、ことさらな技巧によって極端に強調しようとする諧謔精神に溢れたものであった。洞窟(グロッタ)趣味というものが好まれたのもマニエリスムの特徴のひとつであった。グロテスクという言葉はこの洞窟趣味が転じてできたものである。 1960年代から70年代にかけて、このマニエリスムの時代が再々発見され、しかもこのような精神は一時代に限定されるものではなく、どんな活発な時代の後にも必ず見られる歴史に普遍的な現象として解釈し直されるようになった。これが広義のマニエリスムである。少なくとも日本の建築界でこのような歴史的解釈を最も早く始めたのが、私の師、向井正也だった。 ロマネスクのようなひたすら真面目で質朴と思われていた時代にも、高度に知的で諧謔趣味のマニエリスムが発露していたのだ。これはとても新鮮な驚きだった。 この修道院を見て十分に満足したので、もう一泊しようと思っていた予定を急遽変更し、昼前に次の街ビリャマヨール・デ・モンハルディン(Villamayor de MonjardÍn)に向かい始めた。ところが途中で標識を見失い、そのまま西に向かえば間違いないだろうと歩き続けた結果、もっと先のロス・アクロスに着いてしまった。アルベルゲに入ったのは私が最後、7時半を過ぎていた。朝食付きで宿泊代は5.5ユーロだった。 ![]() (写真8) エステリャを出てすぐのイラーチェ(Irache)という村のボデガ(Bodega、ワイン醸造所)に設けられていたもの。横に巡礼者諸君と呼びかける看板がかかっていて、赤ワインと水が飲み放題になっていた。アルコール好きの人には信じられないようなサービスなのだろうが、コップ半分も飲むと歩けなくなるので、私はほんの少し口に含んだだけだった。 #
by santiargon
| 2007-11-08 20:47
プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)⇒シラキ(Ciraqui)⇒エステリャ(Estella)。約22㎞。
プエンテ・ラ・レイナのプエンテとは橋という意味である。街を出るその橋(写真1)を渡ってすぐ、ひとりの男に声をかけられ、結局、この日は最後までその人物と行動を共にすることになった。本多友常と共通の友人である難波和彦によく似ていて、つい彼と話しているような気分に襲われることが多かった。今年64歳のドイツ人、ヴェルナー・ペルツという人で、都市計画の仕事をしていたという(写真2)。職業上、我々は兄弟のようなものだと彼はいったが、もう年金(pension)が貰える年齢になったからと彼は引退していて、今は仲間と一緒にスペインのコスタ・デ・ソル(太陽海岸)にある街で暮らしているという。東京と京都にも少し滞在したことがあるといっていた。 (写真1) (写真2) 難波和彦に似ていると書いたが、難波氏はもっと若々しい。 今年の4月下旬から5月いっぱいをかけて彼はすでにサンティアーゴまで歩き通していて、これが今年2回目のカミーノであるという。実は私も、この一回で歩き通すのはもったいないような気がし、できることなら途中でやめ、別の年に再訪して残りを歩きたいというようなことを考えていたところだった。だがもったいないという日本語は世界中に例がないほど稀少な言葉らしく、だからノーベル平和賞を受賞したアフリカの女性は、このモッタイナイという言葉を世界中に広めようとしているという。実際、私は自分の意をペルツ氏に英語でうまく伝えられなかった。仕方なく、もう一度カミーノを歩いてみたいとしかいえなかった。その言葉を彼はまるで自分のことのように喜び、私の背中を叩きながら、2回目の方が感動はずっと深いといった。 サンティアーゴと並んでカトリック3大聖地と称されるローマ、イェルサレムにも同じような巡礼ルートがあるのかと尋ねると、ここだけだという。あとの二つは鉄道や車を使うしかないらしい。カミーノは、サンティアーゴにヤコブの墓が移されるよりずっと以前、2万年前からヨーロッパの人々がすでに歩いていた道で、彼によれば、天の川にある一つの流れがカミーノに投影されているのだという。それで私も少し腑に落ちた。キリスト12使徒の中でそれほど大きな存在感があった訳でもないのに、なぜヤコブの墓への巡礼路だけがこんなにも有名になったのか不思議に思っていたところだった。サンティアーゴ・デ・コンポステラのコンポステラとは、星が指し示した場所という意味だ。だが、ローマで逆十字に磔刑されて殉教したペテロの墓をここに持ってくる訳にはいかない。だから別の場所に埋葬されていたヤコブをここに召還したという訳だ。ペテロに次ぐ第二使徒であったというヤコブの存在と、天の川についての伝説、そしてヨーロッパ各地に住む人々の南方や日が沈む最果ての地への憧憬、そういうものが歴史の時間の中で撚り合わされながら、サンティアーゴ・デ・コンポステラ巡礼は成立してきたのだろう。ペルツ氏によれば、現在、ヨーロッパの20カ国から、サンティアーゴへの巡礼ルートができているという。 サンティアーゴまで歩き通すのは全体の15パーセント、あとの人たちは道のりの厳しさ、そして体の故障、とりわけ足の問題で落後していくとペルツ氏はいった。 なぜカミーノに来たのかと問われたので、先日、パンプローナの中華料理店で南アフリカ出身の男性に話したのと同じことを話した。すると彼も、1984年に自分の人生は大きく変ったといった。彼は、ヨーロッパはいうに及ばず、アフリカ、中東、アジアなど世界各地で都市計画の仕事をしていて、まだ若いうちからメルセデスに乗り、大きな家に住み、アフリカ美術の膨大なコレクションを持ち、湖まである敷地に別荘を持つような生活をしていたという。だがマレーシアだったかシンガポールだったかで仕事をしていた時、奥さんがストレスが昂じてアルコール中毒になり、数年後に死亡したという。すべてのものを所有していたとき、自分は少しも幸せではなかったが、それらを失って初めて自分は幸せというものを知ったと彼はいった。 日本人がせいぜい一週間しか休暇を取ることができないのを彼はクレイジーだといい、ヨーロッパの人たちが何週間も休暇を取ることこそクレイジーだとほとんどの日本人は思っているだろうと私は答え、お互いに大笑いした。 日本がアジア諸国に対しての戦争責任を全然果たしていないことについても彼は憤慨しながら話し、自分もそう思うが日本の為政者がせいぜいそういう人たちばかりだったとしか私にはいえなかった。 EU(欧州連合)が成立してから、これが私にとっては3度目の訪欧だが、当然のこととして、来るたびに各国の境界は薄れていっている。3年前にポルトガルのホテルで見たTV番組のことを彼に話した。ペルツ氏も、最初は国境をなくしたり共通の通貨を持つなどあり得ないことだとみんなが思っていたといった。 ポルトガルで私が見たのは、フランスが制作を担当し、EU諸国に同時放送されているとおぼしき番組だった。近年、NHKが制作するドキュメンタリー番組などは、コンピュータ・グラフィックスの新技術を追うことだけに執心し、肝腎の映像や中身そのものは二の次になっているとしか思えないような傾向をますます強めているが、そんな日本では絶対に不可能と思えるような質の高さだった。 それはオーストリアのウィーンにあるシェーンブルン宮殿という建築の美を讃えるドキュメンタリーで、おそらく同市にある動物園、植物園、水族館などの映像をまじえ、もう呆気にとられるほどに見事な映像美でまとめられていた。そしてそのドキュメンタリーでガイド役を務めていたのが、イギリスの名優ピーター・ユスティノフだった。『ナイル殺人事件』以降、アガサ・クリスティ原作の推理小説を映画化したものでエルキュール・ポワロ役を演じてきた俳優である。ポワロは灰色の脳を持つベルギー人探偵という設定だったはずだ。ユスティノフは、その姓からしておそらくロシア系だろう。だが私には、ギリシャの名監督ジュールス・ダッシンが撮った『トプカピ』という傑作で、気の弱い肥った男を演じていた俳優という印象の方が強い。因みに、ショーン・コネリー、イングリッド・バーグマン、ヴァネッサ・レッドグレーヴといったヨーロッパの名優から、ローレン・バコール、リチャード・ウィドマーク、アンソニー・パーキンスといったアメリカの有名俳優まで、途轍もなく豪華なオール・スター・キャストで作られていた最初の『オリエント急行殺人事件』では、ポワロ役を、デビュー作の『トム・ジョーンズの華麗な冒険』でいきなりアカデミー主演男優賞を獲ったアルバート・フィニーが演じていた。 余談はさておき。ロシア系と思われるイギリス人俳優が案内するオーストリアにある建築を讃えるフランスが制作したドキュメンタリーを私はポルトガルで見た、という訳だ。 カンボジアにあるアンコール・ワットの美を讃えるTVドキュメンタリーを、中国が制作し、ヴェトナム系日本人の俳優がその案内役を務め、共通の通貨によって何の関門もなく旅行してきたフィリピン人が韓国のホテルでそれを見る。そんな事態がいつの日かアジアにも訪れることはあるのだろうか。だがそのような事態をすでにヨーロッパは実現しているのであり、そのことを我々は、いつでも、何度でも、驚異し、噛みしめる必要があるだろう。 今日の目的地、エステリャに着いた(写真3、4、5、6)。 (写真3) (写真4) (写真5) (写真6) #
by santiargon
| 2007-11-08 20:39
プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)⇒エウナテ(Eunate)⇒オバノス(Obanos)⇒プエンテ・ラ・レイナ。約5㎞。
たまっていた日記を書くのと、足を休ませるため、この街にもう一日滞在することにした。パンプローナで4,5日休養しようと思っていたのだが、あまり面白みのない街だったので、2日だけでこの街にやって来た。だがこの街も面白くない。ただ、アルベルゲのそばにある教会(イグレシア・デル・クルーシフィホ、Iglesia del Crucifijo)は非常に興味深かった(写真1、2、3)。 イグレシア・デル・クルーシフィホ また専門的な話になるが、あり得ないようなプランの教会だった。普通、少し大きな教会になると、礼拝堂は3廊式のプランになる。中央に身廊、柱列を挟んで両側に側廊が配置されるのが一般的なあり方だ。というより、広々とした大きな礼拝堂が欲しくても、間口を架け渡す構造が大変なことになるので、小、大、小の幅の空間を3つ並列させるという形式を編み出したという方が正確だろう。そして特にゴシック時代になると、それら3廊を縦軸として、祭壇側寄りに横軸を描くように両側に張り出しが設けられるようになる。これをラテン十字のプランという。縦軸と横軸が同じ幅、同じ長さを持つものをギリシャ十字のプランという。当然、ラテン十字は軸性を持ち、ギリシャ十字は中央集中型のプランになる。ギリシャ十字で代表的なのがヴァチカンにあるカトリックの総本山、サン・ピエトロ寺院だ。 ところがこのイグレシア・デル・クルーシフィホは同じような幅の2廊式になっている。19日の日記のサン・サルバドール・デ・レイレの地下聖堂のところでも書いたが、これでは礼拝堂の中心軸に柱列が並ぶことになり、普通は絶対に許されないようなプランになってしまう。 だがよく見ると、それぞれが独立した1廊式の礼拝堂を2列並べたようになっている。祭壇側に向かって右側が主廊、左側が従廊とでもいえばいいか。主廊の方が幅も長さも若干大きめになっている。ガイドブックによると、12世紀に建てられた本体に、百年後、ドイツの巡礼者によって持ち込まれたY字型をしたキリスト磔刑像(驚くべきものであったらしい)を展示するためにこの従廊部分が増築されたらしい。次の日に終日行動を共にしたドイツ人の都市計画家も、こういうことについては一般の素人と変らない知識しか持っていなかったが、この教会にはかなり驚かされたという。 (写真1) 主廊側から祭壇を撮す。ダウン症の人たちが集団で見学に来ていた。 (写真2) 主廊側から後部を撮す。主廊の方が少し長い。 (写真3) 従廊からY字型磔刑像を撮す。 エルミータ・デ・サンタ・マリア・デ・エウナテ プエンテ・ラ・レイナから30分ほど歩いた人里離れたところに建つエルミータ(小会堂、ermita)。 サングエサのアルベルゲで松井夫妻とも話したことだが、カトリックに帰依するする民族、国家、人々が人類の歴史に残してきた行跡には、自他を問わず、毀誉褒貶入り乱れるところ甚大なるものがあるだろう。世界は彼らだけのものではない。だが少なくとも建築という営みに携わる者にとっては、その業績の多くは、絶対に否定することのできない、いかんともし難い圧倒的な価値を持つものであるといわざるを得ない。建築だけでなく、絵画、彫刻、音楽その他あらゆる芸術においても同じことがいえるだろう。もちろんそのカトリックに属する社会にも、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教等、他の宗教が残してきた業績について同様の感慨を持つ者は少なくないだろう。だからこそ、松井夫妻もそうであるように、我々は、建築を通して宗教や人間や世界を知るために、世界中の建築を訪ね、何事かを学ぼうとする。 そしてエウナテという原野のような地にぽつねんと存在するこの謎めいた会堂にも、私たちはいろんなことを教えられ、解くべきいろんな謎を迫られる。(写真4) (写真4) これが、一人の隠者が神と対峙するべく自ら籠もる蟄居のようなものとして建てられたのなら、まだしも理解の糸口は開かれている。日本にもそうした類のものはないことはないだろうからだ。だが、少規模とはいえ少なくともある共同体によって礼拝というものが営まれるべく造営された会堂である。しかもカテドラルと称されるようなものに較べるといかにも小規模なものではあるが、建設には必ずある一定以上の集団の力が必要なものである。つまりある種の共同体による作業であった。にもかかわらず、その共同体が日常を送ったであろう場所からなぜこんなにも離れたところに建てられなければならなかったのか。これがまず最初の疑問であった。もっと徹底的に深山のようなところに、修道院のようなものとして建てられたのならともかく、あるいは大きな礼拝堂が身近にあるにもかかわらず、どうしてこういうものが建てられる必要があったのか、それがよく解らない。 八角形をなす小会堂の、そのまわりを取り巻くように設置された同じ八角形の低い柱列。この建築からそれを取り去った状態を想像するのはたやすい。そしてほとんどの人は、それを、いかにも何か決定的なものが欠けた陳腐なものとしか思わないだろう。だからといって彼(彼女)は、もし自分がこのような立地にこのような条件の建築を設計するという機会を与えられたとしても、これに似たものを構想できただろうか。まわりに何のよすがもないこのような立地には、円形や正多角形、要するに軸性のない集中型プランの建築を構想するのが常套手段というものだ。だがそのまわりを、何の機能的な必要性がある訳でもないこのような柱列で取り囲むというのは、凡庸な想像力では決して出てこないだろうものだ。(写真、5、6、7、8、9) まわりを取り巻く柱列によって、この建築は、一挙に単旋律にハーモニーが加わったような豊かさを獲得することになった。白井晟一がこれとよく似た手法を用いていたことがある。 ![]() (写真5) (写真6) (写真7) (写真8) (写真9) 以下に書くことを、ここに掲載した写真だけで気づいた人は凄い。 実はこの建築は正八角形ではない。正面の祭壇のある部分の辺が他の7辺より明らかに大きい。ということは、360度からまずこの辺の角度を取り、残りの角度を7等分したということだ。ところが幾何学では角度を3等分することさえ不可能なことが証明されているのに、7等分する道を選んだということは、最初から明らかな無理を選んだということだ。もちろんすべての建築は、数値や幾何学がそのまま立体化されている訳ではない。大なり小なり誤差というものを含んで成立している。だからこの教会も、残りの辺は、それぞれ7等分された角度の近似値を持つべく構想されたといってよい。だが理念によって不可能な、近似値でしかあり得ないことが、神のための空間にふさわしいといえるだろうか。20世紀最大の哲学者といわれたオーストリアのヴィトゲンシュタインは、姉から依頼されて自ら設計した住宅(ストンボロウ邸)にさえ、近似値を許さず、図面に記載した寸法に厳格に合致することを求めた。 ところがそんな小理屈などどこ吹く風といった調子で、この建築は、残りの7辺の長さも、測ってみるとまちまちだった(私の歩側は正確だ)。極端なのはまわりの柱列だ。礼拝堂本体の8角形と頂点の位置が合っていないどころではない。それぞれの辺が本体の辺に平行なのはその通りだとしても、7等分したはずの辺は、長いものと短いものとでは3割以上の差があった。ということは、辺によって本体と柱列の間の幅がそれぞれ大きく異なっているということだ。しかもなぜ8辺の柱列のうちの6辺が角柱で、残りの2辺だけが2重円柱なのかも解らない。2重円柱から成る2辺が祭壇や入り口の位置と関係があるのならともかく、そういう訳でもない。なぜその位置にだけ突然2重円柱なのかまったく解らない。もっと解せないのは各辺の柱の数だ。5の辺もあれば6の辺、7の辺もあり、その配列もまちまちである。ただオリエンテーションは厳格に守られていた。オリエンテーションというのは、ヨーロッパで教会が建てられるとき、祭壇がエルサレム、つまり東方に向けられるという由緒から来た言葉である。それが転じて、新しい世界に入ってきた者に与えられる初期指導というような意味にもこの言葉が用いられるようになった。 上に挙げたイグレシア・デル・クルーシフィホの2廊式プランやサン・サルバドール・デ・レイレの地下聖堂の、通常では許されないような礼拝堂のプランを強引に実現してしまったのと同じように、これも、この国だからできてしまったということなのだろうか。それとも、この会堂を構想した者が持っていた天衣無縫ともいうべき美意識のなせる技なのだろうか。何となく私は、常識ではあり得ないような不協和音を一杯含んでなお、この上なく美しいブルガリアの民俗音楽、あるいは、ストラディヴァリウスの作るヴァイオリンにはルーズな部分が多く含まれているらしいという話を思い出した。(写真10) (写真10) #
by santiargon
| 2007-11-08 20:32
パンプローナ(Pamplona)⇒ウテルガ(Uterga)⇒アルト・デル・ペルドン(Alto del Perdón)⇒オバーノス(Obanos)⇒プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)。約23㎞。
パンプローナのような大都市でも、巡礼者用に黄色い矢印がペンキで書かれていて、それを探しながら進む。建物の壁や木の幹、地面、交通標識の柱等、いろんなところに書かれているので、見つけるのが大変だ。見失いそうになると立ち止まってまわりに目を凝らす。ゲームをしているようなものだ。 田舎の道に入ってしばらくするとこんなものがあった(写真1)。 (写真1) 巡礼中に亡くなった人の碑。遭難するような場所とも思えないので、急病か 何かだったのだろう。 昼前ぐらいから、上り坂の勾配が次第にきつくなってきた。稜線上を風力発電機が延々と繋がるように並んでいる(写真2)。後ろから吹き付けてくれるのなら相当に楽になりそうな猛烈な風が吹いている。台風以外では経験したことがないような強風だ。しんどく、寒く、足が痛い。 (写真2) みんなかなりの勢いで回っている。大西洋からの風が年中吹き付けるような 特異な場所なのだろう。 ピレネーのソンポール峠を越えたときは、道のりは果てしなく続くかのように長かったけれども、舗装路なので勾配はそれほどでもなかった。自然も変化に富み、水場も多く、むしろのどかといっていいようなコースだった。だがソンポール峠を越えてきたというだけで、みんなから例外なく驚きと賞賛の声が返ってくる。スイスに住むフランス人女性のカップルと、オロロンで出会った数人のグループは私より大分先に行ったので、まだ私はソンポールを歩いて越えてきた人に一人も出会っていない。だが多くの人が必ず越えなければならないこの峠もかなりきつい。 と思う間もなく、峠(アルト・デル・ペルドン)に到着(写真3)。 (写真3) こういうモニュメントがどれもユーモアに富んでとても洒落ている。分厚い 鉄板の服まで風になびいている。 峠からの下りはこぶし大やそれ以上の大きさの石ががらがらとしていて(写真4)、歩きにくいことこの上ない。ことさらに痛い足に響く。 (写真4) 前の男の服装から暑そうに見えるが、よくあんな格好でと呆れるほど ひどく寒かった。 このあと少しして、私は坂道で転倒してしまった。下り勾配というのは写真では伝わりにくいものだが、これでも相当にきつい。ごろごろする大きな石に思わず片足を踏み外し、痛んだ足の踏ん張りがきかず、もう一方の足で持ちこたえようとしたがそれも踏み外し、つんのめり、さらに下りで勢いがつき、15キロほどの荷物を背負っまま、何十年ぶりかの見事な倒れ方だった。あまりの痛さにしばらくは立ち上がることもできなかった。打ち付けた唇から血、右膝の破れたズボンに血。出血こそしていなかったが、両の手のひらも皮膚の下が青くなっている。幸いカメラと眼鏡は無事だった。痛さと悔しさと情けなさでしばらくは写真を撮る気にもならなかった。おまけに、気が動転してしまっていたのか、矢印を見失い、行き止まりの道に入っていた。結局往復で1キロほど無駄歩きになってしまった。 4時頃、オバーノスという村に着いた。通過するそれぞれの村や街は、いい加減に歩いていればどれも同じように見えてしまうが、注意深く観察するとやはり微妙に個性というものがある。この村には何となく品格というようなものが漂っているように感じた。とりわけ感心したのは教会前の広場だった。囲繞感と開放感のバランスが絶妙で、こんなに気持ちのいい広場はほかに記憶がない。広場というのはどんな建築家も大好きなテーマで、そんなものを設計する機会でもあれば、ともすれば囲繞感が勝ちすぎて窒息しそうな広場なってしまうことが多い。広場恐怖症(アゴラフォビア)という神経の病もあるほど、世の中にはそういうことに敏感な人もいる。症状のひどい人は、まわりの建物の中にいる人やそこにいない人の視線まで突き刺さるように感じ、自分の家から一歩も外に出ることができなくなるという。玄関からほんの数歩の郵便受けまで必死の覚悟で出ようとする人の姿をTVで見たことがある。 世界一豪華な応接間といわれるヴェネチアのサン・マルコ広場、あるいは同じイタリアのシエナにある世界で最も美しいといわれるカンポ広場。囲繞感ということからいえばどちらも相当に強い。両方ともまわりを取り囲む建物の焦点が一箇所に集まるような構成になっている。カンポ広場は扇を大きく開いて縦に伸ばしたような形になっていて、特にその傾向が強い。だがどちらも広さが十分にあり、ということはまわりの建物は相対的に低く感じるので、窒息しそうな印象から免れている。あの構成で広場がもっと狭ければ、アゴラフォビアの傾向のある人はいたたまれないだろう。 このオバーノスの広場は、おおむねの建物がそれとなく別々の方向を向いていたり中心軸がずれたりしている。だから焦点というものができにくいような構成になっている。一人の建築家がそういうことを意図して設計しようとしても、絶対にこうは絶妙にいかないだろう。どうしても過剰な作為や恣意というものが出てしまうものだ。 この広場を実測すれば、実にほれぼれとするような図面ができ上がることだろう。どこかの大学の研究室でやらないだろうか。いかがですか、本多先生。もっとも地元の大学あたりがとっくにやっているとは思うけれども。もしそうであればその図面をぜひとも見てみたいものだ。(写真5、6、7、8、9、10) (写真5) (写真6) (写真7) (写真8) (写真9) (写真10) スイスに住むフランス女性のカップル、ソンポールに向かうつづら折れの坂道で大きな声をかけてくれた自転車に乗った白髭の男性、彼らがそこまで行くといっていたプエンテ・ラ・レイナに着いた。アルル・ルートがここで合流し、フランスから出る四つのルートを辿ってきた人たちが一堂に会する街。いわば巡礼路の要衝であり、どんなに素晴らしい街だろうかと期待していた。だが街の入り口にある教会と2キロほど離れたところにある小さなチャペルを除いて、街自体にはひどくがっかりさせられた。今までに通過してきたどんな村や街よりも陳腐で荒んだ印象しか受けなかった。 すべてのルートを辿ってきた巡礼者が合流するアルベルゲだから、少しは興味があった。玄関脇のベンチで、足の手入れをしているシャワー上がりと思われる女性に、どれくらいの人が宿泊しているのかと尋ねた。 今までに泊まったアルベルゲやジート(正式なアルベルゲではないが中身や料金はよく似たもの)では、最初のレスカーと松井夫妻らと一緒だったモンレアルの9人が最多だった。それ以外、私ひとりだけということの方が多かった。だから料金が格別に安いアルベルゲはとても有難かった。 シャワー上がりの女性は、30人ぐらいはいるだろうと答えた。しかもまだ日は高い。これからもっと増えるだろう。巡礼者の資格無しという声があちこちから飛んで来そうだが、その数に恐れをなし、思わず近くにあったホテルに私は逃げ込んだ。 #
by santiargon
| 2007-11-08 20:23
パンプローナ⊂ÔÔ⊃サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ(San Juan de la Peña)⊂ÔÔ⊃サン・サルバドール・デ・レイレ(San Salvador de Leyre)⊂ÔÔ⊃パンプローナ。約400㎞。⊂ÔÔ⊃はタクシー移動。
松井夫妻からあんな凄い建築を二つも見逃すなんてと教えられたので、今日はタクシーを使うことにした。どちらもすでに歩いてきたルートから少し外れたところにあった。パンプローナの街中でつかまえたタクシーの運転手は、かなり調子のよさそうな男だった。まずサン・フアン・デ・ラ・ペーニャに行き、パンプローナに戻る途中でサン・サルバドール・デ・レイレに寄って欲しいと頼んだ。彼はどちらも知らなかったらしく、地図を見て、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャまで2時間はかかるだろろうといった。いったいいくらぐらい払うことになるのだろう。 途中、3日前に歩いたジェサ湖の反対側を通過した。湖全体から雲のようなものが立ちのぼり、見たこともない風景(写真1)だった。思わず停車するよう運転手に頼んだ。彼は上機嫌で、必要な時にはいつでも言ってくれと車を停めた。 ![]() (写真1) サン・フアン・デ・ラ・ペーニャに着いたとき、メーターは200ユーロ(3万2千円ほど)を優に越えていた。往復8万円ぐらいになりそうだった。日本を発つ前、こんな旅に出ると報告に行った姉や兄たちから貰った餞別をちょうど使い果たすような金額だ。 サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ ちょうど一時間後にここに来て欲しいと頼んでタクシーを降りた。(写真2)。 ![]() (写真2) まず浮かんだのは、鳥取県の、同じような奥深い山中の崖のくぼみに建てられた三徳山三仏寺投入れ堂という建物(http://www5d.biglobe.ne.jp/~mitoku/nageire.html)だった。写真家の土門拳が、日本の歴史的建造物の中の最高傑作と讃えた建築だ。おそらく、人類全体にとっても普遍のものに違いない同じような宗教的信念を持ち、同じような立地を発見し、同じような建築的執念によって建てられた建物同士。だがそれらの同一性を越えて、むしろ圧倒的な差異こそが思い知らされるような建築だった。 あくまでも細身の、可能ならば抽象的とさえあろうとするような投入れ堂とは異なり、このサン・フアン・デ・ラ・ペーニャという修道院の建築は、人間の持つ肉体性というものの、その果てにある姿を実現しようとしているように思えた。いかに健全な肉体を保ちながら、自然や神に対し得るか、それがヨーロッパ文化の底流にあるように思う。逆に日本の文化は、いかに人間の持つ肉体性というものを排除しようとしてきたかというところにその本質があるような気がする。古代より、人間の裸体の彫刻や絵画が西洋には溢れるようにあり続けてきたのに、日本では皆無といってよい。 この建築のどこに肉体性というものを感じるのかといわれると、あくまでも投入れ堂との相対的な印象の比較の上での話だが、もうすべてにおいてそれは充溢しているというしかない。たとえば投入れ堂の細い柱一本を切り取れば、それはもう単なる一本の木材に過ぎず、柱という形式を与えられていた時点でのものとはすでに本質を異にしてしまっているように思う。つまり投入れ堂を構成する単なる木材に過ぎなかったもの一本一本に、形式や意味が付与されているということだ。逆にこのサン・フアン・デ・ラ・ペーニャを構成するすべての石材は、どこまでも同じ石材のままで、それが集積され、一個の全体性というものを獲得した時点で、初めて巨大な意味や形式が現れることになる。 こんな大きな困難なテーマを短時間でまとめるのはとても無理なので、いまはこのぐらいのことしか書けない。いずれにせよ、投入れ堂との比較において、この建築は西洋と東洋の文化の違いの本質をまざまざと見せてくれているように思う。(写真3、4、5、6) ![]() (写真3) (写真4) (写真5) (写真6) 次のサン・サルバドール・デ・レイレに向かうとき、運転手は、これはもう倒しておくからといって料金メーターを止め、パンプローナは無税だともいっていた。 サン・サルバドール・デ・レイレ 同じく一時間後に迎えに来て欲しいと告げて中に入った。(写真7) ![]() (写真7) 入場料(3ユーロ)と引き替えに鍵と日本語の解説書を渡された。日本語は意外としっかりしたものだった。礼拝堂の鍵を自分で開けて、中に入ったら必ず施錠するようにいわれた。修道院としての活動がそのまま営まれているため、無闇な人の出入りを防ぐためなのだろう。 ロマネスクの空間は、ゴシックのような立ちのぼっていくという気配がなく、しんとして、重い。宗教空間としてはこちらの方がふさわしいと思われるのだが、この荘重、静謐を犠牲にして、ゴシックは垂直性と華麗を求めた。以降、ヨーロッパの教会建築でこの特性を積極的に再獲得しようとする動きがあったとは思えない。(写真8,9) 突然、祭壇横のドアが開き、黒い僧服を着た男性が一人ずつ現れ、席に着いていった。そしておもむろに合唱が始まった。グレゴリオ聖歌。修道士としての日常活動の一環なのか、見学者へのこころざしなのか、どちらか分からない。当然、レコードやCDで聴いてきたものには人数も歌唱力も劣るけれども、それでもとても美しい。(写真10) この修道院の特別の空間である地下聖堂に下りた。傾斜した地盤の上に建てられているため、一階の床高を調整する柱頭付きの束(つか)のような短い柱が林立し、それらをアーチで繋いでいる。見たことのないような強烈な空間だ。だが傾斜地に建てられたという与条件によって不可避的に生み出されたものであり、人間の意志によって予定調和的に構想されたものではない。つまり、人間の想像力を越えた空間がそこに発見されたということだ。逆にその空間の力に驚き、人間的な手業を加えていったのだろう。 だがここに世にも困難な問題が控えていた。祭壇の中心軸上に柱が並ぶという、すべての宗教を含めておそらく世界でただ一つの礼拝堂が出来上がった。建築には人類が何万年、何十万年という時間をかけて培ってきた制度やタブーというものがあり、その最も冒すべからざるタブーを、意図せざるものであったとはいえ、この地下聖堂は冒してしまっている。そこまでしても聖堂として使いたい、それほど強い力がこの空間に溢れていたのだろう。いずれにしてもこの世に二つとない空間だ。(写真11、12) ![]() (写真8) (写真9) (写真10) グレゴリオ聖歌を歌う修道士たち。 (写真11) (写真12) 柱列が祭壇を左右に二分している。 パンプローナに戻る途中、メーターがいつの間か150という数字に変ったまま止まっていた。降りるとき、いくら払えばいいのかというと150ユーロでいいという。解せないままにクレジット・カードを渡すと、端末を少し触ったあと、このカードは使えない、だから現金で支払って欲しいという。そういうことだったのかとこちらも納得し、喜んで150ユーロを渡した。予定の三分の一以下の金額で済んだ。どちらも上機嫌で別れた。 昨日満室で断られたオスタルを訪ねると、今日は空いていた。40ユーロ。 夜、昨日の昼食を食べた中華料理店にまた行った。客はまだ一人もいなかった。食事を終わり、お茶を飲みながらガイドマップでこれからのコースのことを調べていると、客が一人入ってきた。向かいのテーブルの、私と向かい合う席に座った。50代の男性。中国語はもちろんのこと、スペイン語も出来ないらしく、英語で何度も確認しながら注文していた。 いきなりカミーノかと私に声をかけてきた。それから一時間以上、離れたテーブル同士で話し続けることになった。他に客はいず、店の人間は英語が分からないので、お互いに大きな声を出してもそばでひそひそと話すのと変りはなかった。南アフリカ共和国の人間だが今はロンドンに住んでいるという。テレビカメラマンで、打たれた瞬間のゴルフボールを捉えてその飛跡を追うのが自分の仕事だといった。今回は短期の休暇でやって来たが、サンティアーゴまではすでに歩いたという。ガリシア地方は山岳地帯で一年中雨が降っている、10月には雪になるからその対策を忘れるな、絶対に野宿はしてはいけない、助けてくれる人が必ずいるから人家を訪ねろ、よかったところは後でその本にマークしてやるなどと話してくれた。 イギリス人の友人がこの巡礼のことを教えてくれたこと、その彼が自殺して今年がちょうど20年目だということ、2年前、長女が交通事故に遭った日に歩き始めたことなどを話した。長女のところで言葉に詰まってしまったが、静かに話を聞いてくれた。あなたは絶対にこの旅で何かを見つけることができる、今自分はとてもエモーショナルな気分になっている、あなたにとても感謝しているといった。別れ際、両手で私の手を長く握り、いい旅を祈っているといってくれた。 #
by santiargon
| 2007-10-28 01:03
モンレアル(Monreal)⇒ノアイン(Noain)(。¯¯。)パンプローナ(Pamplona)。歩行距離約15㎞。(。¯¯。)はバス。
ポーというフランス側のピレネー山麓にある街から始まった私の巡礼行を、少なくとも巡礼ルートに乗っている限り、私は歩くことによって全うするつもりだった。だがこんなことを油断というのだろう、モンレアルからパンプローナに向かっていて、ひどい足の痛さと疲れから、魔が差したように思わず私はバスに乗ってしまっていた。自分の退治した龍の血を浴びて不死身になっていたはずなのに、一枚の木の葉が彼の背中にひっかかり、その部分にだけ龍の血はかからず、結局、それが彼の命取りになった。ジークフリートに自分をなぞらえるなどよもやおこがましいことではあるが、この瑕疵はきっと、この自分の旅、自分の人生にとって大きな意味を持つものになるのだろう。 ようやくパンプローナに辿り着いた。オロロン以来のバスクの異貌の再現(写真1)を感じさせたが、この街に二日間滞在して、それはないと断ぜざるを得なかった。今夜の宿を探して歩く途中、こんな地方都市になどと期待していなかった中華料理店を見つけた。メニューから待望していたスープ・ヌードルという言葉を見つけた。日本でいう五目中華そばのようなものであったが、とても美味しかった(写真2)。 (写真1) (写真2) いくつかのオスタル(安いホテル)を訪ねたが、満室か高すぎるか(40ユーロ)で他を探すうち、フォンダ(fonda)と掲げられた宿を見つけた。辞書を引くと安宿とある。主人はぎろぎろした眼の肥ったお婆さんで、もうひとりのお婆さんと洗濯をしていた。15ユーロ。 まさにこれまでに観た映画や読んだ小説に現れたフランスやスペインの安宿そのものであったが、いざ自分がその登場人物になると、宿代だけを払ってすぐにでも逃げ出したくなるような部屋だった。安宿ならこうでなくてはならないとわざとそうしたかのようなみすぼらしい部屋、煙草をメインにいろんなものが入り交じった猛烈な臭い。 滞っていた日記を書くために、多くの人たちと同じ部屋で寝なければならないアルベルゲを避け、見つけようとした宿だった。だが寝るためにだけこの部屋に戻った。ヘンリー、ジェーン、ピーターの一家はこんな宿にその姓の由来を持っていたことを知っていたのだろうか。 サン・ニコラス大聖堂。(写真3、4、5、6、7) 12世紀に建てられたというから、ハカの大聖堂と同じようにちょうどロマネスクからゴシックへの移行期のものなのだろう。スペインの教会の祭壇といえば金箔で覆い尽くされたおそろしく装飾的なものを思い浮かべてしまいがちだが、ここがまだフランスに近いという地理的条件にもよるのか、ステンド・グラスの使い方といい、どちらかといえばフランス的な印象を与えるものであった。サングエサの教会について書いたときにも述べたのだが、どうもスペインの教会、特にカテドラルと呼ばれるような大規模なものになればなるほど、フランスのカテドラルが持つような全体の統一的イメージというものが希薄になり、どちらかといえば散文的な印象を与えるものが目立つ。立地条件にもよるのかもしれないが、もっと別の深い理由があるように思えてならない。もしこの国がフランスのような統一的イメージを最初から是が非でも教会に求めていたとすれば、それが実現できる立地をまず用意していたはずだと思われるのだ。 (写真3) (写真4) ![]() (写真5) ハカの大聖堂と同じく、この教会の床も、ずっしりと重量感を感じさせるような 木製のものだった。これはフランスでは経験しなかったものである。とても好 ましい雰囲気を醸し出している。石畳の街路からそのまま同じ石張りの床で あるよりは、特別な場所に入ってきたのだという印象をはるかに強く与える。 (写真6) (写真7) 余計なことだが、なぜかピラネージを想わせるショットになっていた。いずれにし ても人工照明が少しあざと過ぎる。最小限に抑えて欲しいものだ。 #
by santiargon
| 2007-10-28 00:47
ジェサ(Yesa)⇒リエデナ(Liedena)⇒イドシン(Idocin)⇒モンレアル(Monreal)。約30㎞。
明日、パンプローナへの行程を長く残したくないために、おそらく初めて30キロほど歩いた。巡礼者のための山を通る道も用意されているようだが、ジェサはそのメインのルートから外れているために、そんな道に入る案内もないようで、そのまま自動車の走る道路を歩いた。とはいえ巡礼者も歩くことができるように路側帯が完備され、そのための標識も立てられていた。いくつか小さな村を通過したが、とりたてて特色のあるようなところはなかった。この日、最も印象的だったのはこれ(写真1、2)。 (写真1) (写真2) 深い峡谷の入り口に架けられた古代ローマの橋。自分の生きてきた人生と はかけ離れた、何か途方もないものを見ているというような気がした。 悪魔の橋(Puente del Diablo)と呼ばれているらしい。 アルベルゲには6時頃着いた。ドアを開けるとそこはダイニングのようになっていて、ひと組の男女が休憩していた。後にホセとクリスティーナのスペイン人カップルだと知った。ホセは熊のような体つきに剽軽な顔、ドナルド・ダックのような声で、アメリカに行けばたちまち人気者のコメディアンにでもなれそうな男だった。クリスティーナはソフトで知的な文句なしの美人。知っている人はほとんどいないと思うが、アンジー・ディキンスンという女優に似ている。あるいはテイタム・オニールをもっと優しくしたような顔。挨拶をすると、先客のなかに風邪を引いて寝ている人がいて、静かにして欲しいと言われているとクリスティーナが教えてくれた。 忍び足で階段を上がると、すでにベッドに寝ている男がいて、やおら目を開けて睨むようにこちらを見た。その隣に毛布を頭からかぶって寝ている人物がいて、病人はそちらの方だった。空いたベッドを探していると、日本語で自分の名を呼ぶ声がする。振り返ると、一昨日サングエサで一緒だった松井氏だった。小さな声で再会を喜び合い、夕食はどうするのかと尋ねた。ダイニングの声がこの寝室にまでよく届くので今日は料理できそうにない、だから近くにある店に明日の食料を買いに行き、その後はレストランで食事をする予定になっているという。 シャワーを浴びた後、松井夫妻と共に店に行き、明日のパンとハムと水、それにズッキーニと見間違うような太さのキュウリを1本買った。レストランが開くのは9時らしいので、それまで時間を潰すため、裏のテラスで松井夫妻と買ってきたワインを飲み、キュウリの皮をむいて塩を振りかけた。体中に生気が戻るように感じるほど美味しかった。 ホセとクリスティーナは先にレストランに行くといって出かけたので、私たち3人も出かけるべく用意をした。荷物を置きにベッドに戻ると、着いたばかりのような男がいた。病人がいるのでここでは静かにしないといけないらしいと英語で伝えた。すぐ後で、ルドルフという名のドイツ人で、彼もまた建築家であることを知った。 前の席、右から松井夫人、ホセ、クリスティーナ。こちら側の席、右から松井氏、私、ルドルフ。私以外、昨日、サングエサのアルベルゲでも一緒だった人たちだ。ホセは苦手な英語を習いたがっていたらしいのだが、習うのは日本語が先だと昨日の夜考え直したという。松井夫妻ととても気が合うようだった。 「イン スペイン、」とクリスティーナが松井夫人に何か説明しようとしていた。少し間があいたので、すかさず私がそこに割り込んだ。「イット レインズ メインリー オン ザ プレイン」。 びっくりし、吹き出しそうになるのをこらえながらクリスティーナが私を見た。ほかの4人は分からないようだった。クリスティーナが説明した。『マイ・フェア・レディ』で、イライザがヒギンズ教授から英語の発音を矯正されるシーンで歌われる歌。『In Spain it rains mainly on the plane(スペインでは雨は主に荒れ野に降る)』。私が歩いてきたのは荒れ野ではなかったということなのだろう。 ルドルフは静かな男だった。ハカから、真っ昼間、動くものは何もなく、底の知れないような静けさの中ばかりを歩いてきたと話すと、それはあなたの心を映していたからだと彼はいった。ベックリンの絵や糸杉についても話すと、彼もベックリンには関心があるらしく、糸杉はイタリアのトスカナ地方に行けばいくらでも見られると教えてくれた。 松井氏によると、ルドルフはベルリンで35人ほどの所員を抱える設計事務所の所長をしていたらしい。だが大きなトラブルに見舞われ、すべて自費で処理して事務所をたたみ、その直後、ホタテ貝の化石を持った子供に偶然出会い、ここに来たのだという。私にはサングエサのアルベルゲで松井夫妻と話したことが大きな慰めになったといっていた。その前夜、同じアルベルゲで私は松井夫妻にフランク・ゲーリーを少しけなすような言い方をしてしまっていたので、ゲーリーを好きだというルドルフとの論争のようなものを彼らは私に期待していたようだった。 10年ほど前、スペインのビルバオというバスクの都市に、ヴェネチア、ニューヨークに次いで3番目のグッゲンハイム美術館が建てられた。設計を担当したのがフランク・ゲーリーというアメリカの建築家で、まさに鬼面人を驚かすようなその怪物的デザインは、山間のひなびた工業都市だったビルバオを、一夜にして一大観光都市に変貌させることになった。その後、ヨーロッパの各都市がビルバオに続けと言わんばかりに世界中から最先端を行くような建築家を招聘し、思う存分に腕をふるわせるという風潮が始まった。 だがルドルフは、自分が本当に好きなのはドナルド・ジャッドだと言った。どうしてこの旅ではこんなことばかり起こるのか。 この日記で私は何度か道家洋という自分より15以上も歳下の友人の名を出してきた。その後も彼に一、二度電話をし、彼と同じ県で設計事務所を営む夫妻に会ったことなどを話した。だがあえてルドルフのことには触れないでいた。私も驚いたが、この箇所を読む彼の方がもっと驚くことだろう。 なぜ前日はゲーリーのはずだったのに、私が加わるとジャッドに変わってしまうのか。しかも好きな建築家はと尋ねられてドナルド・ジャッドと答える建築家など世界中を探してもそうはいないだろう。ジャッドは建築家でさえないのだ。 早逝した二人の友人のことを追想しながら歩こうと私は思っていた。意図しなくても自然に二人のことを考えることが多かった。その一人が大島哲蔵だった。彼は、その死の瞬間、私の知る限り、ドナルド・ジャッドについての日本の第一人者だった。ジャッド(Judd, Donald)は、その名からも推察されるように、ユダヤ人で、自宅やアトリエなどの建物を、自らの芸術行為の一環として建てたことでも知られている。ミニマル・アートという60~70年代にニューヨークを中心にして隆盛を誇った傾向の、最も名の通った芸術家の一人だ。大島哲蔵は、道家洋の協力によってジャッドの著書を出版してもいた。もちろん道家を私に紹介したのも大島だった。 あれは緩慢な自殺だったと、大島の死の間際、彼の周辺にいた人たちは言った。急に肺を患い、一度は入院加療しようとしたものの、すぐに自ら退院し、あとはなすがままにまかせたという。彼が一人住まいの自宅で死んで発見されたと道家からの第一報を受けたとき、信じられないとはまさにあのような感慨のことをいうのだろうという感慨に私は襲われた。 その4年前、ふとしたことで私は大島とささいな諍いを起こし、その後もボタンの掛け違えのようなことがいくつか重なり、次第にしこりは大きくなり、ついに最後まで関係を修復できないままに終わった。すぐにでもそうしたいという気持ちが私の中にもありながら、幾度となく聞こえてきた修復を求める彼の声を、あまりに愚かにも、私は聞こえないふりばかりし続けた。 ほぼ30年間、大島哲蔵は私のかけがえのない友人であり続け、私も彼にとってのかけがえのない友人であり続けたと思う。建築とは無関係な分野の人間であった大島をこの世界に引き入れたことの任を負うのも、主に渡辺豊和と私の2人であったと私は思っている。 #
by santiargon
| 2007-10-28 00:39
サングエサ⇒ジェサ(Yesa)。約10㎞。
今日は予定ではリエデナ(Liedena)経由で、できればイスコ(Izco)まで行く予定だったが、詳しい地図もないままにサングエサを出たために道を間違え、知らない間にジェサに向かう山道に入ってしまっていた。引き返すのも馬鹿らしいのでそのままハビエル(Javier)という村を経由し、昼過ぎ、幹線道路沿いのジェサに着いた。アルベルゲから続く標識をちゃんと辿れば自動的に次の村に行き着けるようになっていると知ったのは、この後だった。 ジェサには何もめぼしいものはなく、閉まったままの小さな教会とドライヴ・インのようなホテルぐらいがあるところだった。予定のイスコまで行くには遠すぎるため、仕方なく早めの宿泊地と決めてしまった。4キロほど離れたところにサン・サルバドール・デ・レイレ(San Salvador de Leyre)という修道院があり、サングエサで一緒だった建築家夫妻は今日はそこまでタクシーで行き、同じアルベルゲに戻ってもう一泊する予定だといってた。このところ、午前中は何ともないのだが、昼頃から足の痛みが始まり、それも今までは左足だけだったのが、右足も同じように痛くなり、一度宿泊を決めてしまうともう動く気もなくなってしまい、そのままホテルで休んでしまった。ハカからずっときつい山道が続き、相当に疲れがたまっているので、早くパンプローナについて少し休養したいとずっと思っていた。 足の痛みに始まる随想(ちょっとオートマティスム風)。 私の場合、かかとの骨や筋肉、神経との関係、およびそれらの老化などの問題があって、いつまでも足が痛いと大袈裟に騒いでいるが、これだけ毎日歩いていると大なり小なり誰の身にも起こっている問題だろう。トレッキング・シューズという、起伏ある山道などを長距離歩くために特化された靴を履いていてこんな状態なのだから、昔の人々はどれほど苦しんだことだろうとずっと思っていた。 日本でも、東海道や中山道など長距離を行き来していた人たちが履いていたのは、主にわらじや草履であっただろうから、その大変さは想像に余りある。ところが子供の頃から無数に見てきた時代劇で、そんな長旅をしている人たちが足の痛みや履き物のことで困ったというようなシーンは一度も見た覚えがない。絶対に苦労していたはずで、毎日、宿に着いてはその日の治療や明日の対策を講じていたにちがいないのだ。温泉というものが日本で異常に発達したのも、体の疲れはもちろんのこと、足の傷や痛みを取る必要性も大いにあったからではないかと私は思っている。 だが時代劇で、旅をする人たちの身体に何か問題が起きるのは、大抵、女の人で、それも癪(しゃく)という胃けいれんのようなものに襲われ、急に胃の辺りを押えて苦しみ出すというものだ。何度こんなシーンを見ただろう。現代、女の人が急に胃を押えて倒れ込むなどという現場に私はこの歳になるまで居合わせたことがない。にもかかわらず、かつての時代劇では頻繁に起こっていた。 おそらく私は小学生のときの6年間だけでも、数百本は時代劇を見ているだろう。東映だけで少なくとも週に3本以上は製作されていたはずで、そのほとんどを私は見逃すことはなかった。だが江戸時代の武士言葉が子供に理解できるはずもなく、したがってストーリーの詳細など分かった試しはなかったように思う。それにもかかわらず飽きずに観続けられたのは、ストーリーのほとんどすべてがこういった映画的クリシェで組立てられていたからだろう。クリシェというのはいわば決まり文句、常套手段といったほどの意味で、たとえば子供や女性が悪者に襲われかけたところに白馬に乗った正義の剣士が現れるといったものや、代官という役職にあるものは必ず越後屋といった名の金貸し業と裏で繋がって悪いことをするようになっている。そして最後に正義と悪との大立ち回りがあり、必ず正義が勝つ。 実際、こういった時代劇がどれくらい製作されたのかは知らないが、全部を分析すると、ほとんどがおそらく限られたクリシェの組み合わせから出来上がっているだろうことは容易に想像できる。どういうクリシェがあり、どういうヴァリエーションがあり、どういう組み合わせ方が最も好まれたか、などという研究をするときっと面白い結果が出るにちがいない。もっとも、観ても観ても同じような退屈なシーンばかり続く映画を見続ける根気が絶対に必要な条件になると思うが。 こうしたクリシェのみで演劇を構成しているのが吉本新喜劇だ。観客やTVの視聴者はクリシェ以外の一切のものを期待しない。彼らの期待しているところにいかに期待通りのクリシェを繋いでいくことができるか、これだけが脚本家や役者たちの役割である。意外な展開、斬新な想像力は絶対的な禁忌である。 と、かくのごとく、今日は何も書くことがないので、余計なことでお茶を濁してしまった。以下はスペインに入ってから撮った写真の拾遺。 ![]() (写真1) 上左は一杯固まって実ができている。何か分からない。柿に似ているが 柿はこんな風にはならない。だが果物屋には明らかに柿と思われるもの が売っている。 上右は名前は分からない。フランスから一貫して途切れることなく路傍に 生えている。柔らかくなった実を時々取って食べてみた。美味しいというほ どではないが、ねっとりと甘い。小さな種が10個ほど入っている。イザン ベール氏はマーマレードにするといっていた。 下左は一本の木に黄色から赤までの実がなっていた。夾竹桃に似ている が、そうかどうかは分からない。実は食べたことはないが、感触では食べ られそうにないと思った。 下右はイチゴの一種だろう。赤い実はちょっと酸味があるが、黒い方は甘 くてとても美味しい。見つけると必ず食べていた。 ![]() (写真2) 普通の住宅の庭に展示するように置かれていた昔の農機具や水汲み用の 機械。意図はよく分からないが、いかにも農業に誇りを持っているように思え る。 ![]() (写真3) 上右を除いて巡礼者用のサイン。これを一つでも見逃してしまうと大変なことにな る。標識を見かけなくなれば、必ず最後の標識のあるところまで戻らなければなら ない。上右はこの道は巡礼者も歩行するということを自動車の運転手に教えるもの。 ![]() (写真4) そのままドライ・フラワーになりそうな草花。上右、下左は花が枯れたもののよう に思えるが、あとの2つはこれが生の状態。写真では分かりにくいが、特に右下 は花びらがカサカサという音を立てて、枯れているのかと思ったが、そうではな かった。 ![]() (写真5) 上下の間に線が入っているものは、上がスペイン語の呼び名、下がバスク語の 呼び名。何も入っていないものは2つの別の地名で、スペイン語とバスク語が同 じ呼び名のものなのだろう。 ![]() (写真6) アスファルトの路上にいた。同行のオランダ人から、これはマウスとラットのどち らと思うかと訊かれ、咄嗟にはその区別が付かなかった。彼がいうにはこれはマ ウスだという。マウスは愛玩されるべきネズミで、ラットは忌み嫌われるべきネズ ミのことだそうだ。ほかにも自動車にはねられたハリネズミと思われるものの死 骸も何度か見かけた。 ![]() (写真7) 路傍に最も平凡に生えている草だが、ちぎって嗅いでみると強い芳香がある。 どこかで嗅いだことのあるような匂いにも思えたが、分からなかった。後で教 えられたところによると、アニスという草で、これでアニス酒が作られる。と いってもおそらくこの草を直接醸造したり蒸留するのでなく、梅酒と同じよう にリキュール類につけ込んでアニスの風味を付けるだけのものだろう。アニス 酒を1本買ってみたが、あまりの癖の強さと甘ったるさに、二口目を付ける気 にならなかった。カクテルに使うものなのかもしれない。 #
by santiargon
| 2007-10-28 00:30
ウンドゥエス・デ・レルダ⇒サングエサ(Sangüesa)。約11㎞。
収穫された小麦の麦わらを束ねたものと思われる。牛の餌になるのだろうか。古代遺跡のように見える。(写真1) (写真1) アラゴン川を渡り、サングエサに着いた。アラゴン州からナバラ(Navarra)の地方に入った。ここからまたバスクの地が始まるらしい。街に入るとすぐ、バスク語で授業を行なう学校があった。入ったスーパー・マーケットで、女店員同士が、明らかにスペイン語ではない言葉で会話していた。またあの異貌の建築に会えるかと思うとわくわくする。 街並みは整然としていた(写真2)。ところが、どういう訳か息の詰まるような閉塞感に覆われているような気がしてならない。オロロンのあの奔放、自由がまったく伺えない。そこだけにほとんどの創意と熱意が注がれたような軒裏の過剰な装飾(写真3)が目に付く。オーストリアの画家H.R.ギガーがデザインを担当した映画『エイリアン』を彷彿とさせるようなものもある(写真4)。だが建築そのものは、軒並み陳腐な定型を墨守しようとしているだけで、僅かな破調を感じさせるものさえない。オロロンにはそもそもそのような定型というものがなかったように思う。オロロンとこのサングエサが同じ民族的特性をもって造られた街だとはとても思えない。期待が大きかった分、失望を越えて腹立たしささえ覚え、閉塞感も相俟って気分まで悪くなってきた。 (写真2) (写真3) (写真4) もっと解せなかったのは、これはハカでも感じたことなのだが、形式というものが最も重視されるべきはずの教会が、少なくとも外観上はそれを持っていないように感じたということだ。開放された一種のこけおどし的ドーム状の空間(写真5)によるエントランスと、変哲もない矩形の塔が目立つだけで、本体の姿はそれらの間に完全に没している。それがこの地の教会の形式だと言われればそれまでなのだが。 (写真5) 月曜日の午前中だというのにミサが行なわれようとしている教会(写真6)があり、人々に紛れて入ろうとした。ひとりの老人が、カメラを下げた私を見て、中をちゃんと見ろというような仕草をした。礼拝堂に入って、右に行けというような指示をしている。分からないままに進んで右手を見てもドアがあるだけだった。ミサが始まっていたので開けるのをためらっていると、椅子に腰掛けた別の老人が開けてみろというようなジェスチャーをした。 (写真6) それまでの閉塞感が一気に開放されるようなゴシック様式による回廊式の中庭(写真7、8)が広がっていた。きっと彼ら自身も、この街では類のない特別な空間であることを認識しているのだろう。 ![]() (写真7) (写真8) これも閉まっていた別のゴシック式教会のエントランスに刻まれた彫刻が、なんとなく法隆寺の百済観音像を想わせる姿形(写真9)だったことが、この街を覆う閉塞感を抜け出るもう一つの回路のように思えた。 (写真9) アルベルゲに先客はいなかった。今夜はひとりで気が楽だと思っていると、6時ごろ、ひと組の男女が現れた。日本語を喋った。ハカの街でも出会っていた覚えがある。むこうもこちらのことを覚えていて、それで何となく気分がほぐれた。ちょうどスパゲティをゆでようとしていたところで、ひとりでは量が多すぎるので一緒にどうかとすすめた。二人も別の食料を買い出しに行き、共同で炊事を始めた。電熱式のコンロを3つ使い始めたところでブレーカーが落ちた。それでも点灯している照明器具があり、男性の方がそれは非常照明だといった。そんな言葉が出るのは同業者以外に考えられない。案の定、愛知県の某市で設計事務所を営むどちらも38歳の建築家夫婦だった。 結局、深夜2時ごろまで私たちは話し込んだ。今回は一ヶ月半、事務所を閉じて建築の見学がてらこの巡礼路を歩きに来たと二人は話した。以前にも事務所を一年間休んで世界各地の建築を見学して回ったことがあるという。まったく何の準備も予備知識もなく飛び込むようにして来た私と違って、二人は入念な準備をしていた。スペイン、特にスペイン人の気質が気に入っているようで、私がフランス人とスペイン人から受けた印象の落差のことを話すと、とても腑に落ちないというような反応を示した。とても興味深い建築を私がいくつも見逃していたことを知って呆れもしていた。 #
by santiargon
| 2007-10-22 02:49
アルティエダ⇒ルエスタ(Ruesta)⇒ウンドゥエス・デ・レルダ(Undués de Lerda)。約22㎞。
スペインには雲というものがないのかと思っていたが、こんなところに隠れていた。(写真1) (写真1) あの下に川か池があるのだろう。前日の太陽に暖められた水が、早朝の 冷え切った空気に触れて蒸発する。普通は霧というものになるはずだが、 ここでは雲としか呼べないようなものになっていた。早朝は真冬、昼は真 夏といった気候がまだ続いている。 昼ごろ、ルエスタに着く。いきなり廃墟が続いていた(写真2)。これまでもいろんなところで廃墟、廃屋は目についたが、相当に規模の大きな廃墟のようだ。 (写真2) 廃墟が好きな建築家はとても多い。建築家だけではないだろう。日常生活に追われ、次々と生み出される饒舌ばかりを相手にしている者にとって、廃墟が醸し出す沈黙や無時間というイメージがたまらないのだろう。 だがこの村はそんな呑気な無責任なことをいってはいられないような状態にあった。大きな一個の廃墟と見えたのは、教会から住宅まで軒並みに崩壊しつつある現場だった。木造の屋根は、人が住み、常に手入れと補修がなされてこそ保たれるものなのだろう。無人になると石の家がこうも簡単に崩れてしまうのかと逆に目を瞠ってしまう。 教会の壁に残された落書きの無邪気(写真3)と、崩壊現場の悲惨。光と影。これがスペインの特性のひとつというべきなのか。 (写真3) 廃墟となった教会を撮影していると(写真4)、ピルグリムかと大きな声で訊かれた。ならばこっちへと呼ばれ、バルのようなところへ連れて行かれた。昨日のフランス人の棄郷者といい、この男といい、山の中に入るほどに達者な人間が隠れているのかと思えるような英語だった。リュックを下ろすのを手伝ってくれ、巡礼手帳にスタンプを押してくれた。そこはアルベルゲの食堂を兼ねたバルで、7,8人の人間が日曜の昼前の時間をくつろいでいた。このアルベルゲに宿泊するには早すぎるので、次の宿泊所のある村を尋ねた。アルベルゲの運営者らしい別のこざっぱりした身なりの男が、7キロ離れたウンドゥエス・デ・レルダという村にアルベルゲがある、2時間半で行けると教えてくれた。 (写真4) 右下の青いシャツを着た男に声をかけられた。 テラスでコーヒーを飲みながら、しばらく男と話した。農業をやめてみんな都会に出て行ったからこんな村になってしまった。だが政府があの教会の修復工事に取りかかろうとしている。昨日はここで大勢でパーティーをやったからこんなに散らかったままになっている。男は出会ったときからずっと鼻歌まじりで私に話かけていた。外来者の目には暗澹たる状況と映っているものを、当事者は意に介していないのか。教会の建物が崩壊してミサが行なわれなくなったから彼らはバルに集まっているのか、そんなことも関係なく集まっているのか。ブログのURLを教え、宿泊者の記念帳にアルゴン探険隊のステッカーを貼り、村を出た。 村を通過してみると、残った部分に棲み着いた住民すべてがあのバルに揃っていたのではないかというような雰囲気だった。村を出てすぐの森の中に、葬送のためのものと覚しき小堂があった(写真5)。 (写真5) 4時頃、ウンドゥエス・デ・レルダに着いた。彼らの言っていた道とは別のコースを来たのかもしれない。距離も時間もずっと長かった。 この村はルエスタと違い、石造ならではの堅固さと静けさを保っていた。その印象はこれまでのどの街や村よりも強かった。永遠の固さ、永遠の静けさ。(写真6) (写真6) 街の静けさは、だが直前まで人々で賑わっていた余韻のようなものを残していた。リア・ウィンドウが上げられたままの自動車。皿に残った猫の餌。風にゆれるカーテン。だが人の気配はしない。アルベルゲを探していると、教会のそばに着いた(写真7)。 ![]() (写真7) 突然アコーディオンが鳴った。教会前の広場に上がると、女の子が練習を始めようとしているところだった(写真8)。 (写真8) 男の子がローラー・スケートを始めた(写真9)。キリコの絵なら、車輪を転がす女の子の長い影。キリコは昨日話題に出したアーノルト・ベックリンの弟子だ。 (写真9) この教会は、外観とプランから、興味ある内部を予想させた(写真10、11)。だがやはり閉まったままだった。こういう山間の教会では教会関係者が常在しているのでなく、ミサなどの必要時だけ来るようになっているのかもしれない。 (写真10) (写真11) 是非とも中を見たかった。力強くシンプルなプラン。教会前に掲げてあっ た案内図より。 #
by santiargon
| 2007-10-22 02:38
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